リーダーとは、社会的な責任を果たす個性的米粒

2012年06月10日

リーダーとは、社会的な責任を果たす個性的米粒

朝の読書から、童門冬二著『人望力の条件』から、適塾の教育方針に関心を持ちました。以下、抜粋です。


幕末の大阪に「適塾(適々済塾)」があった。経営者は、緒方洪庵。塾生には、大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉、など、そうそうたる人材を排出した。

緒方洪庵の教育方針は、「どうゆう人物になるか、あるいは何をやるかは学生一人一人が自分で判断すればいい 」と、学ぶ者の自主性や自立性を重んじた。

この教育方針は、言ってみれば、「お粥ではなく、にぎりめしの米粒になれ」と言うこと。お粥は、アイデンティティ、汁の中に溶け込んでしまう。集めるには、しゃもじを使わなければならない。
 ところが、にぎりめしの米粒は、握られてはいるが一粒一粒が、「自分は米粒だ」という主張をきちんとしている。(略)

洪庵が学生たちに、「それぞれの自主性を重んじなさい」というのは、「何をやってもいい」という、勝手気ままな生き方を認めたわけではない。「社会には責任を果たせ」ということを付け加えるのを忘れなかった。
(以上、『人望力の条件』より、抜粋)


この米粒という表現が、特に納得した。個性とは、こういうことか、と思いました。

洪庵は、日々の挨拶を重要視した。朝は、今日の一期一会で、夕方には教育会えた方と、さようなら。日々が、真剣勝負の意味を教えていたのかもしれません。

加えて、童門冬二氏の洪庵評価は、「師や先輩の価値観の枠の中に、後輩を全部取り込まない」、「弟子たち一人一人がそれぞれ一本の木だ」。

福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の発想が出てくるのかもしれません。

果たして、私自身、社会の米粒に成っているかは、定かではありませんが、自分自身の関心事を重んじながら、地域社会て何ができるか、常に考えながら生きなければならないと思います。

  

Posted by ノグチ(noguchi) at 06:53Comments(0)教育問題