限りなく正確に、自分を表すこと。私たちは馴れるべきなのである。〜曽野綾子著『本物の「大人」になるヒント』より〜

2022年12月19日

<本当の勇気ある人>限りなく正確に、自分をそのまま表すこと。私たちは馴れるべきなのである。

サッカーワールドカップは、実力の世界。しかし、監督に対しては、戦力に選ばれるまでは、自分を必要以上に、よく見せないことには、代表メンバーには加えてもらえません。

一般人はそうでもない。

日々の生活は、ワールドカップの戦いのような超非日常とは違い、平凡極まりない変わり映えしない毎日が、一般人の現実であります。

年収がすごくもない。

親族に富豪が居るわけでもない。

神童と言われる評価もない。

神童と言われた人ほど、大人になると普通に戻る。

さて"普通"とは何か?

本には、

>買いかぶられるよりも、実際よりはバカだと思われる方が、どれだけ、静かで安心でるか。

あいつは天才ばい。

とても頼りになる。

この言葉ほど、自分を必要以上に、よく見せたいと思うからなのである。

>自分をそのままに表す

の意味は、肩肘張らず、素手で外界を受け止めことである。
(以上、『本物の「大人」になるヒント』より)

要は、買いかぶられるよりも、1実際よりはバカだと思われる方が、どれだけ、静かで安心できるか。(曽野綾子)

鋭敏な人ほど敵を作るそうだ、背伸びするような活動ではなく、常に踵を地につけた、肩肘を張らないで、日常を生きたいものです。  

<学校は何のためにあるのか?>学校がなかったら絶対に世界に平和はやってこない。〜工藤勇一(教育者)〜

2022年12月19日

<学校は何のためにあるのか?>学校がなかったら絶対に世界に平和はやってこない。〜工藤勇一(教育者)〜

(長文です。お時間ある時にお読みください)

 私は、学校と地域との連携というテーマに、以前から関わって来ました。小学校のPTA活動が終わった後、役員仲間数人と地元中学校区内の郷土史について聞き取り調査を始めた。きっかけは、土地改良組合の元組合長から、干拓の歴史を聞き取りからでした。
 さらに組合長の高齢者仲間から、戦争のことを聞く機会があり、太平洋戦争時代に陸軍に従軍した方から、大陸での戦争の実体を語ってもらう会を開催した。その時に、戦中時期に小学生だった人から、当時の国内の苦しい生活や、空襲、戦闘機から銃撃の話を聞きました。
 その時の資料を基に、今小学校で「戦争講話」をやっています。私は、戦争経験者ではありません。しかし、先輩たちから聞き取りをした歴史を伝承することは必要と思っています。

 前置きが長くなりました。哲学者・苫野一徳×教育者・工藤勇一の対談録『子どもたちに民主主義を教えよう』の中に、以下の工藤氏の言葉を見つけました。

(以下、本より転載)

「自分のためだけだったら学校っていらないのかもよ。だって勉強なら家でもできるじゃん。僕はね、学校は平和のためにあるとおもうんだ。もし学校がなかったら絶対に世界に平和はやってこないと思うよ」
(以上、『子どもたちに民主主義を教えよう』より)

工藤氏が言われる

>もし学校がなかったら絶対に世界に平和はやってこないと思うよ

学校と平和の関係は、とても新鮮な意見だと思います。
 私の母は、戦時下に小学校に通った世代で、「勉強はほとんどやらなかった」と思い出を話していました。子どもたちには「神の国、負けるはずがない」と教え込んで、苦しい生活を強いていたのだと思いました。

工藤氏の意見が、日本の太平洋戦争時代の教育をついてもありました。

(以下、『子どもたちに民主主義を教えよう』から)

「世界には学校教育で戦争を煽る国があるわけですね。残念ながら、かつての日本もそうだったとも言えるわけです。だから学校とはただ存在していれば価値があるわけではなく、そこで何を学ぶかが肝心」
(以上、本より)

工藤氏の指摘に、賛同します。この後、本で展開される対談で、国連が現在取り組む「持続可能な社会」や「1人も取り取り残さない社会づくり」などについても語られています。

 世界の人口が80億人を超えたとニュースで聞きました。一つの地球に、人類が住み続けるにはどうするのか?

 各地で紛争が頻発する中、その揉め事を起こさない役割(考え方)を果たすのが、学校なのだと、哲学者・苫野氏と教育者・工藤氏の対談録『子どもたちに民主主義を教えよう』での意見に、参考になるヒントがあります。

この2人の「自由の相互承認」の議論の最後にある苫野氏の言葉が印象に残りました。

(以下、本より)

 でも学校は、同時に社会のためにもあるんです。それがまさに、民主主義社会を成熟させるための目的ですね。そしてそれはもちろん、最終的には一人ひとりの自由のための実現につながるわけです。
(以上、『子どもたちに民主主義を教えよう』より)

学校で、自由と民主主義を学ぶ、教える、そんな発想を持つ教育者がいることに、感銘を受けます。対談録『子どもたちに民主主義を教えよう』は、これからの学校運営、教室運営に、大きな影響を与えていくように思います。

*参考資料:苫野一徳×工藤勇一の対談録『子どもたちに民主主義を教えよう』

平和の祭典の一つ、サッカーワールドカップの決勝戦を見ながら、お二人の対談録を読んでいました。


  

Posted by ノグチ(noguchi) at 03:56Comments(0)

<学校運営、教室運営を民主主義の学びの場に>優秀な指導者?の恐怖支配、体罰暴言、

2022年12月18日

<学校運営、教室運営を民主主義の学びの場に>優秀な指導者?の恐怖支配、体罰暴言、元教師「俺も若かったけん、本当に悪かった」・・・

最近、学校内ルール「校則」の見直し論が始まっているが、なかなか進展はないように見えます。

今日の熊日一面に「恐怖支配」で、子どもを指導した元教師のことが取り上げられていました。

先週から読んでいる、哲学者の苫野一徳氏と教育者の工藤勇一氏の対談録『子どもたちに民主主義を教えよう』に、以下のことば紹介されていました。

(以下、本より転載)

苫野)とても重要なポイントてす。「自由の相互承認」は、この社会の基本ルールなんです。工藤さん流に家ば、誰もがきっと合意できるはずの、この社会の最上位ルールなんですね。

工藤)ですよね。たとえば麹町中では一斉授業をできるだけやめる方向で動いていて、子どもたちが自分であった学習スタイルを選べるようにしています。だから授業がはじまると友だち同士で教え合う子もいるし、教員から教わる子もいるし、黙々とタブレットと向き合う子もいるし、家から問題集を持ってくる子もいます。そこには確実に自由があるんですけど、ルールもある。「どうやって勉強するかは君たちの自由だけど、他の人の勉強の邪魔をする権利はないからな」って。これってまさに自由の相互承認ですよね。

苫野)まさにですね。この言い方だと、中学生も「自由の相互承認」を十分に理解してくれそうですね。
(以上、『子どもたちに民主主義を教えよう』より)

新聞記事によると、

>数秒以内の星列や大きな声での返事、5分前行動などを強要する厳しい指導。「外からは統率の取れたクラスに見えたと思う」としつつ、「恐怖支配だった。返事の声が小さいと、壁に向かって「はい」と何十回も言わされた」と証言する。
(以上、熊日新聞より)

大人から強制される、7〜12歳の子どもたちには、そのトラウマは後々まで続くように思います。自由のない教室は、ある意味「檻の中」にいるようなものです。

苫野氏の説明にある「自由の相互承認」とは何か?

「みんな自由に生きたいと願っている。でも、自由をめぐって戦争したり、一部の人が大多数の人の自由を奪ったいたら、誰も自由に生きられない。だったら、誰もが自由な存在であることを、お互いに認め合うことを、お互いに認め合うことをルールにした社会をつくるしかない」そうヘーゲルは言ったのです。
 すへての人が、対等に自由な存在であることをお互いに認めあう。そのことをルールにした社会的。これが民主主義の根本原理です。
(以上、本より)

苫野氏、工藤氏の意見を読んだ後に、本日の朝刊をたまたま読み、教師になるための教育に、民主主義の理解が足りていないように思いました。

「自由の相互承認」という、民主主義の根本を、小中学校での実習や初任教師の研修の中で、理解するカリキュラムを、加えることが大事と思います。
 熊日記事とお二人の対談録から、指導力とは何か、保護者の価値観が多様化する中、民主主義の本質を保護者も学ぶ機会を毎年設ける必要があると、痛感しました。

子どもだけでなく、教師も保護者も、学校運営、教室運営を民主主義の学びの場にしなければと思います。





  

Posted by ノグチ(noguchi) at 10:14Comments(0)熊本の出来事教育問題私の意見

<イジメ事件に思う>生徒ファースト、プレーヤーファースト、子どもたちの個性や成長に合わせる指導をやっているか?

2022年12月03日

<イジメ事件に思う>生徒ファースト、プレーヤーファースト、子どもたちの個性や成長に合わせる指導をやっているか?

(長文です。お時間ある時にお読みください)

毎夜、ワールドカップサッカーに、我が家は沸いています。スポーツは、人の心をワクワクさせてくれます。

このサッカーを子どもたちに指導した経験から思うのは、日本の少年スポーツの大会会場では、子どもたちに"頑張れ"のエールは良いと思いますが、怒る声、怒鳴る声が、しょっちゅう聞こえます。

どんなところが良くないのか

どこを修正すればないのか

○○は、なんばしよっとか!
ただ怒鳴られても、意味が分からない。

プロバスケットボールチーム「熊本ヴォルターズ 」の創始者の湯の上聡氏が、バスケットボールのコーチの勉強にアメリカは渡ったときに気づいたのが、「アメリカのスポーツ大会で、グランドや体育館では、怒る声、怒鳴る声が聞こえない」と気づいたそうです。アメリカでは、練習や試合の時、子どもたちを怒ったり、怒鳴ったりするのは、コーチの指導力の無さを露呈しているとみられる、と話してくださいました。

私も初めの頃の指導では、怒っていることをありました。でも、時を重ねると、繰り返す練習のある時、あるいは何年か経った試合中に、子どもがあるプレーのレベルにいきなり変化(成長)する瞬間を見ることがあります。それは、指導者としても感動がありますし、本人もできた喜びを感じる、その時に褒めることをするようになりました。そんな見方(その成長の瞬間を待つ)をしていると、怒るどころか、子どもの指導は、変化するのを待つ楽しみがあると思うようになりました。

今、熊本では、中学生と高校生のイジメ事件が、毎日ニュースや新聞記事になっています。
学校は、教える側からの視点しかないのでは、一人ひとりの子どもの個性や成長を見ずに、授業の進展に着いて来させること、教師ファーストに陥っていないか、と思ったりもします。

11月27日に、熊本県教育委員会主催の「夜間中学シンポジウム」に参加して、何かの都合で、学業が続けられなかった人の学び直しの場所が夜間中学の活動ですが、勉強した内容も理解の差のある多年齢を指導する夜間中学とはどんなどころか。
 今年春に開校した福岡市福岡きぼう中学校の内田久徳校長が語られた「夜間中学は、教育の本質を学べる。多様な個性を大事している」とあり、講話の中で、「開校からの議論の中で、生徒の理解度が確認できれば良いので、テストはやらない」と話されました。まさに、生徒ファーストの指導と思います。

高校スポーツを私も経験したものですが、当時のコーチは、怒ったり、怒鳴ったりする指導をされなかったことが、初心者だった私が、サッカーを続けられた理由かもしれないと、振り返ります。

学校もスポーツも、子どもの個性や成長に合わせる指導をしているか?

生徒ファースト

プレーヤーファースト

成長を促す激励よりも、壁を乗り超えたことを褒める方が、一人ひとりの個性を活かせるように思います。この気持ちを、教育者であれ、スポーツの指導者であれ、常に持っていれば、インタビューや大会後の感想を語るときに、聞く人が違和感を持つような発言は出て来ないように思います。

朝から長々と書きました。昨日の私のNHKニュースのコメントに対する意見から、思ったことを書きました。最後までお読みいただきありがとうございます。  

Posted by ノグチ(noguchi) at 06:05Comments(0)熊本の出来事教育問題私の意見