日常生活への関心が、危機と寸暇を発見する

2007年09月25日

日常生活への関心が、危機と寸暇を発見する

 小林秀雄の言葉「人生の鍛錬」を、時々ぱらぱらとページ関係なく、開き読んでいるのですが、今日気付かせてもらった言葉を紹介します。


 「事件が起こったときは、事件を直接に見た人、間接に聞いた人、これに動かされた人、これを笑った人等々無数の人々が周囲に同時に在るという事だ。事件は独りで決して起こらない。人々のうちに膨れ上がり鳴りひびくところに、事件は無数の切り口をみせる。」~「私小説論」6-178~

 今日も、色々な出来事、事故、事件が起こります。そのことをそれぞれで受け止めていますが、みんな心の中は違うと思います。そこに、論争が起こります。
 師の一人は、新聞記者から政治評論家になった方ですが、事件現場には必ず自分で出向き、自分で調べ、声を聞き考えることが大事と語っていました。そしてさらに大事なことは、事件後を継続して調査・検証を怠らないことが必要と訓示されました。
 人の噂も75日と言いますが、事件の解決には、一人ひとりの妥協(納得)が必要になります。


 「事実は小説より奇だ、これは実に本当のことである。言語に絶する光景という様なものなかなか日常見られるものではないと僕は思い込んでいる。ただそう思い込んでいるだけだ。若し心を空しくして実生活を眺めたら、日常生活も驚くべき危機に満ちている。
」~「山本有三の『真実一路』を廻って」10-222~

 日々の生活の中では、ドタバタと駆け回っていますが、意外と気付かない所に危機の芽が生まれています。生きる勉強の中で、「足元が大事」と良く聞きます。自分の身の回りの家族や仲間を、頭を空にして眺めるゆとりをどこかで持たないと、事件になって対処しては全てを巻き込むことになります。危機は、以外に身近に存在しています。


 「肉体の病人は、ごく軽い病人でも、健康を切望するものだが、精神の病人は、いくら精神が腐って来ても、それに気が附かないだけの口実を用意する・・・・」~「志賀直哉論」10-95~ 

 政治家の失言、スキャンダルは、本人が気付かない(気付かれないだろう)の心が問題であることを、政治家が差悟っていないことにあります。
 自分自身を外から見る目を持つことが必要と、政治家の方々もですが、世のリーダーたちに言いたい場面をたくさん見ます。


「一般に若い頃に旺盛だった読書熱というものを、年をとっても持ち続けている人はまことに少ない。本を読む暇がなくなったという見易いことには誰でも気付くが、本いうものを進んで求めなくなって了った自分の心には、なかなか気付かぬ。又、気が付き度がらぬ。」~「読書の工夫」12-160~

 私の耳にも痛い言葉です。年齢を重ねていくと、様々は地域との関わり、家族の年齢が上がると家族の支援する時間を取られることが多々あります。今は、夏休むですが結構家族ごとに時間が使われます。小学校の時は、毎週が子供の用で埋まってしまいますが、先輩に言わせると「その時しか関われないのだから、しっかり父親をしなさい」と諭されますが、やはり多いですね。
 本をいかにして読むかは、「日々工夫」と、小林氏の言葉からも気付かされます。安岡正篤氏の三上の読書、「馬上(車)」「厠上(トイレ)」「枕上(ベッド)」の数分の読書も日々積み重ねるとすごいそうです。生活の中に、寸暇を見つけて、本を開く工夫に知恵を絞りたいと思いました。

*参考資料:小林秀雄著「人生の鍛錬」より

・小林秀雄 (批評家)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2465984
  

Posted by ノグチ(noguchi) at 08:51Comments(0)名言・スピーチ・訓示・他