【人間力】 歌手・加藤登紀子さんの原点「命の手応え」
2011年01月31日
【人間力】 歌手・加藤登紀子さんの原点「命の手応え」
致知出版社の「人間力メルマガ」から、転載します。今日の文に、私の意見は書きません。
(以下、転載)
「命の手応え」
加藤淑子(元レストラン「スンガリー」経営者)
……………………………………………………………………………………
わが郷愁の街、ハルビン──。
戦前、「極東のパリ」と呼ばれたこの美しい街と
そこに暮らした人々への愛と尊敬の気持ちは、
帰国から六十年の歳月が過ぎたいまも消えることはありません。
二十歳から十一年間を過ごした現地での生活を、
孫や曾孫たちのために残しておきたいと筆を執ったのは、
九十歳を迎えた昨年のことでした。
思い出すままに綴った原稿は二百枚にも及び、
とりわけ強い関心を示したのが、
現在、芸能活動をしている娘の登紀子です。
「もっとディテールを克明に」と
深夜零時から聞き取りが始まり、
毎晩二時間近く尋問のようなやりとりが行われました。
ハルビンで生まれ、二歳半で引き揚げを体験した
娘にとっても格別の思いがあったのでしょう。
私がハルビンへ渡ったのは昭和十年、
主人と結婚した二十歳のことでした。
当時、ハルビンは日本と満州の支配下にあり、
故郷を追われたロシア人たちが過ごしていましたが、
神を信じ、誇り高く生きる彼らの生活には、
どこか美しいロシアの匂いが息づいていました。
世間体ばかりを気にする日本人に窮屈さを
感じていた私にとって、彼らの暮らしに対する憧れは強く、
ロシア人宅に間借りをして幸福な日々を過ごしていました。
しかしそんな生活も長くは続きません。
平和だったハルビンにも戦争の影が忍び寄ってきて、
主人は徴兵されていきました。
その頃生まれた赤ん坊に「世紀が登るように」と
"登紀子"と名づけたのは、そんな私たちが
未来に託した希望であったかもしれません。
戦局は日ごとに激しさを増していく中、
幼子三人を抱えたまま終戦を迎え、
私たちはトラックで収容所へ連行されました。
そこには七十名の婦人とその子どもたちがいましたが、
敗戦のショックからか、誰もが憔悴した表情を見せています。
まもなくするとソ連兵による略奪行為が始まり、
金めのものはすべて持ち去られたほか、
ラジオのコードを切断され、情報源を失いました。
いつ来るかもしれぬソ連兵に怯える日々が続きます。
ある朝、「ソ連兵が来たぞ! みんな外へ出てくださいっ」
という大きな声に慌てて外へ飛び出すと、
トラックに乗った大勢の兵隊たちが
門の垣根を越え建物に侵入してきます。
家財道具がみるみるうちに運び出されていくのが見えました。
日暮れ時に恐る恐る戻ってみると、
お金や食糧の隠してあった畳は引っ剥がされ、
辺りにはずたずたにされた襖や衣類が散乱しています。
女性たちの中には兵隊による強姦を恐れ、
「女」を見せまいと髪をくしゃくしゃにし、
顔を炭で汚す人もいました。
しかしそれでは人間扱いされるはずもありません。
ソ連兵も人間ならば、収容所にいるのも同じ人間。
ならば私は、人間としての尊厳を
相手に認めさせるしかないと思いました。
ある日、自動小銃を構えたソ連の将校が押しかけてきて
「武器があるか調べにきた」と尋ねます。
そのまま、ずかずかと上がってこようとする兵隊に、私は
「ここは私たちの眠る場所です。
畳の上を靴で歩かないでください」
と強い調子で言いました。
すると兵隊も馬鹿にした素振りは見せません。
こちらが毅然とした態度で振る舞えば、
相手もちゃんと敬意をもって接してくれることを、
この時身をもって知りました。
その後、人形作りや洋裁をして、
中国人やユダヤ人から賃金を得ていましたが、
やがて引き揚げ協定が成立し、
在留邦人による引き揚げが始まりました。
日本への船が出る錦州のコロ島まで、
ハルビンから実に八百キロの距離。
雨に吹きさらされる無蓋列車の旅で、
途中にある鉄橋が爆破され、
十二キロの距離を自分たちで歩かねばならないという
過酷な旅です。
私は食糧や衣類などをリュックに詰め込めるだけ詰め込み、
子どもたちには夏服の上に冬服を重ねて着せました。
夕刻に千人余りの日本人を乗せ走り始めた列車は
昼近くになって停車し、下車すると線路を伝う
長蛇の列ができていました。
長男と長女にリュックを背負わせ、
登紀子を胸に括りつけた私は、
後ろに重いリュックを背負いました。
思うように足が進まず、子どもたちの姿が
どんどん見えなくなっていきます。
肩にリュックの紐が食い込んで足がいうことを聞きません。
そこで登紀子を背中におぶることにし、
リュックを線路上に引きずって歩き出しましたが、
線路が切れて砂地になると、
リュックがめり込んで歩けません。
私は背負った登紀子を下ろし、厳しい調子でこう言いました。
「あんたが自分で歩かなければ死ぬことになるよ」
まだ二歳半だった登紀子にこの意味が
通じたかどうかは分かりません。
しかし登紀子は泣きもせず、
一歩一歩自分の足でゆっくりと歩き始めたのでした。
明日の命は分からないが、
とにかくきょうを生きている──。
その命の手応えが、私たちの生きる唯一の証しでした。
帰国後、主人が開いたロシア料理店の切り盛りに洋裁、
子育てとその日々は多忙と困難を極めましたが、
私は自分の生きる道を見失うことはありませんでした。
どんな状況に置かれても、周りの環境や情勢に流されず、
肝心なことは自分の頭で決める、
自分の足で歩くということの大切さを、
この身を通じて知っていたからです。
どれだけ時代は巡ろうと、人間の運命は
いまを生きる私たち自身の意志によって
切りひらかれていきます。
…………………………………………………………………………………
人間は、自分の意志の力こそ、命をつなぐ原点なのかもしれません。
致知出版社の「人間力メルマガ」から、転載します。今日の文に、私の意見は書きません。
(以下、転載)
「命の手応え」
加藤淑子(元レストラン「スンガリー」経営者)
……………………………………………………………………………………
わが郷愁の街、ハルビン──。
戦前、「極東のパリ」と呼ばれたこの美しい街と
そこに暮らした人々への愛と尊敬の気持ちは、
帰国から六十年の歳月が過ぎたいまも消えることはありません。
二十歳から十一年間を過ごした現地での生活を、
孫や曾孫たちのために残しておきたいと筆を執ったのは、
九十歳を迎えた昨年のことでした。
思い出すままに綴った原稿は二百枚にも及び、
とりわけ強い関心を示したのが、
現在、芸能活動をしている娘の登紀子です。
「もっとディテールを克明に」と
深夜零時から聞き取りが始まり、
毎晩二時間近く尋問のようなやりとりが行われました。
ハルビンで生まれ、二歳半で引き揚げを体験した
娘にとっても格別の思いがあったのでしょう。
私がハルビンへ渡ったのは昭和十年、
主人と結婚した二十歳のことでした。
当時、ハルビンは日本と満州の支配下にあり、
故郷を追われたロシア人たちが過ごしていましたが、
神を信じ、誇り高く生きる彼らの生活には、
どこか美しいロシアの匂いが息づいていました。
世間体ばかりを気にする日本人に窮屈さを
感じていた私にとって、彼らの暮らしに対する憧れは強く、
ロシア人宅に間借りをして幸福な日々を過ごしていました。
しかしそんな生活も長くは続きません。
平和だったハルビンにも戦争の影が忍び寄ってきて、
主人は徴兵されていきました。
その頃生まれた赤ん坊に「世紀が登るように」と
"登紀子"と名づけたのは、そんな私たちが
未来に託した希望であったかもしれません。
戦局は日ごとに激しさを増していく中、
幼子三人を抱えたまま終戦を迎え、
私たちはトラックで収容所へ連行されました。
そこには七十名の婦人とその子どもたちがいましたが、
敗戦のショックからか、誰もが憔悴した表情を見せています。
まもなくするとソ連兵による略奪行為が始まり、
金めのものはすべて持ち去られたほか、
ラジオのコードを切断され、情報源を失いました。
いつ来るかもしれぬソ連兵に怯える日々が続きます。
ある朝、「ソ連兵が来たぞ! みんな外へ出てくださいっ」
という大きな声に慌てて外へ飛び出すと、
トラックに乗った大勢の兵隊たちが
門の垣根を越え建物に侵入してきます。
家財道具がみるみるうちに運び出されていくのが見えました。
日暮れ時に恐る恐る戻ってみると、
お金や食糧の隠してあった畳は引っ剥がされ、
辺りにはずたずたにされた襖や衣類が散乱しています。
女性たちの中には兵隊による強姦を恐れ、
「女」を見せまいと髪をくしゃくしゃにし、
顔を炭で汚す人もいました。
しかしそれでは人間扱いされるはずもありません。
ソ連兵も人間ならば、収容所にいるのも同じ人間。
ならば私は、人間としての尊厳を
相手に認めさせるしかないと思いました。
ある日、自動小銃を構えたソ連の将校が押しかけてきて
「武器があるか調べにきた」と尋ねます。
そのまま、ずかずかと上がってこようとする兵隊に、私は
「ここは私たちの眠る場所です。
畳の上を靴で歩かないでください」
と強い調子で言いました。
すると兵隊も馬鹿にした素振りは見せません。
こちらが毅然とした態度で振る舞えば、
相手もちゃんと敬意をもって接してくれることを、
この時身をもって知りました。
その後、人形作りや洋裁をして、
中国人やユダヤ人から賃金を得ていましたが、
やがて引き揚げ協定が成立し、
在留邦人による引き揚げが始まりました。
日本への船が出る錦州のコロ島まで、
ハルビンから実に八百キロの距離。
雨に吹きさらされる無蓋列車の旅で、
途中にある鉄橋が爆破され、
十二キロの距離を自分たちで歩かねばならないという
過酷な旅です。
私は食糧や衣類などをリュックに詰め込めるだけ詰め込み、
子どもたちには夏服の上に冬服を重ねて着せました。
夕刻に千人余りの日本人を乗せ走り始めた列車は
昼近くになって停車し、下車すると線路を伝う
長蛇の列ができていました。
長男と長女にリュックを背負わせ、
登紀子を胸に括りつけた私は、
後ろに重いリュックを背負いました。
思うように足が進まず、子どもたちの姿が
どんどん見えなくなっていきます。
肩にリュックの紐が食い込んで足がいうことを聞きません。
そこで登紀子を背中におぶることにし、
リュックを線路上に引きずって歩き出しましたが、
線路が切れて砂地になると、
リュックがめり込んで歩けません。
私は背負った登紀子を下ろし、厳しい調子でこう言いました。
「あんたが自分で歩かなければ死ぬことになるよ」
まだ二歳半だった登紀子にこの意味が
通じたかどうかは分かりません。
しかし登紀子は泣きもせず、
一歩一歩自分の足でゆっくりと歩き始めたのでした。
明日の命は分からないが、
とにかくきょうを生きている──。
その命の手応えが、私たちの生きる唯一の証しでした。
帰国後、主人が開いたロシア料理店の切り盛りに洋裁、
子育てとその日々は多忙と困難を極めましたが、
私は自分の生きる道を見失うことはありませんでした。
どんな状況に置かれても、周りの環境や情勢に流されず、
肝心なことは自分の頭で決める、
自分の足で歩くということの大切さを、
この身を通じて知っていたからです。
どれだけ時代は巡ろうと、人間の運命は
いまを生きる私たち自身の意志によって
切りひらかれていきます。
…………………………………………………………………………………
人間は、自分の意志の力こそ、命をつなぐ原点なのかもしれません。
人生は、自分を活かす方向を探す日々の連結
2011年01月31日
人生は、自分を活かす方向を探す日々の連結
~龍馬のように「常に明るく、前のめり」に生きる~
今日は、早朝からキッズサッカーの準備をして、直ぐ自宅へ帰り、親戚の法事の準備の手伝いをしました。親父の兄弟の三年忌で、久々に親族が集まり、叔父の冥福を祈る御経をみんなで聞きながら、以前の様子を思い出しました。
また、夕方から私の祖父に縁の深い家のおばーちゃんが亡くなり、通夜に参加しました。93才、10日前まで元気に食事をされていたそうで、寒さで風邪でも引かれたのか?、昨日急に亡くなったそうです。
死とは、誰にも訪れる生命の終末ですが、50代になり、周りの親族でお世話になった先輩方の死に直面し、色々なことを考えます。
今日、NHKの大河ドラマ「江」の中で、天下人に登りつめようとする織田信長と江姫との会話の中に、「自分の思う通りに生きる」の江姫の言葉に、信長は「思いは長くかかるが、人生は短い」とあった。
私も52年の人生を歩んで来ました。高校を卒業し、3年の行きつ戻りつの中で、建築と言う分野を決め、勉強と経験を詰めこんだ10年、社会勉強の足りなさから社会づくりの仕組みを学び仲間を作った10年、多様な分野の方々を探し交流すために動き続けた10年、アッと言う間に22歳から30年が過ぎていました。
昨年は家族の入院、子どもたちそれぞれの進学、父の高齢を感じる出来事、加えて選挙という生活の大きな激変もあり、周りへも大きな影響を与えた一年でした。人は、一人では生きて行けません。助けあいの大切さをを学んだ年でした。
自分の人生、明日どうなるかは分かりません。だからこそ、一日一日を大切に生きなかければならないと思います。
100年前は、人生50年と言われていました。今は、人生80年と言われます。私の祖父は40年前79才で、祖母は8年前に100才で亡くなりました。長寿者社会の中でも、短命の方もたくさんいます。私の同級生も数名、病気などで亡くなりました。
今日のお坊さんの講話で「朝に紅顔、夕に白骨」の人生の短さを語っていましたが、人生80年時代になり、人生の後半、特に晩年をどう生きるかが大事と思います。
日本社会は、海外から超高齢化社会のサンプルとして注目されています。少子化、自殺の増加等「ジャパン・シンドローム」の表現で、日本の成熟社会、特に人口構成から来る地方の変化が注目されています。
そんな難しい問題は、後日に回しますが、60代、70代にどんな生き方をするのか? 私自身は、まだまだ日々のことで精いっぱいで、後の時代を想像できませんが、22歳から「10年×3回り」を振り返ると、日々毎日の積み重ねしか、足跡(人生)を残す方法は無いとも感じます。
私は、自分を活かす方向(行動)を常に模索して来ました。今後も同様に、広がった仲間と語りながら、自分の目指す「周りを元気する」の方向どこか、今年も日々の生活・仕事の中から、変化(気付き、ニーズ)を見つけながら、新たなネットワークづくりへチャレンジしたいと思います。
>「朝に紅顔、夕に白骨」=人の人生は、朝露の如し。
とありますが、1年は365日、1日は24時間あります。この時間を、自分だけでなく私を取り巻く様々な人々の思いを知り、それぞれがより良き人生を歩めるように、自分の目指す方向を常に修正し、これからの10年を生きるために、もがき、苦しみ、考え、日々行動し続けたいと思います。
しかし、日々全力を尽くす必要はありますが、むやみやたらの行動ではいけないと思います。「知行合一」の教えは、゛考え即行動゛の意味ですが、だらこそ考えること(思考)が大事と思います。
・思考の三原則
一、目先にとらわれず、できるだけ長い目で見る。
二、一面だけ見ないで、なるべく多面的、できれば全面的に観察する。
三、枝葉末節を見ないで、根本を見る。
それと、私の行動の中には、多くの偶然が何度か有りました。その出来事は、すべて「興味+行動」から起こりました。地域づくりの先輩は、「人生に偶然はない、全て必然」と強調します。
でも、゛その時そこへ行かなかったら゛の出会いが多々ありました。それをただの偶然と済ますか、「ラッキー」と思い、次の再会を約束するかだけの違いで、後の人生(生活・仕事)が変わります。私の偉業交流会の出会いは、けっこう偶然の出会いから、仲間が増えて行きました。
その偶然に「意志」がこもっているかで、人とのつながりが形になるか、後で大きく変わります。偶然から人生が変わる、それを楽しむゆとりも必要と思います。
・不尽の妙味(みょうみ)~「偶然」の面白さ~
偶然を人生の事実として平たく考えてみると、これまたなかなか面白いものである。これがないと、杓子定規になって味わいがない。偶然に人に会い、偶然に書を読む。人生全て偶然の連結と、却(かえ)って不尽の妙味がある。
(以上、『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』より)
人生、何時の時代に、何処に生まれるかで、人生は違いがあります。しかし、生まれ落ちた場所(時代)で、どう自分の人生を切り開くかは、その人次第と思います。
時代や周りの状況を原因にして、自分を向上させない、仲間づくりをしない、周りを明るくするような行ないをしない、では自分の人生も暗くなる。龍馬のように、「常に明るく、前のめり」に生きたいものです。
~龍馬のように「常に明るく、前のめり」に生きる~
今日は、早朝からキッズサッカーの準備をして、直ぐ自宅へ帰り、親戚の法事の準備の手伝いをしました。親父の兄弟の三年忌で、久々に親族が集まり、叔父の冥福を祈る御経をみんなで聞きながら、以前の様子を思い出しました。
また、夕方から私の祖父に縁の深い家のおばーちゃんが亡くなり、通夜に参加しました。93才、10日前まで元気に食事をされていたそうで、寒さで風邪でも引かれたのか?、昨日急に亡くなったそうです。
死とは、誰にも訪れる生命の終末ですが、50代になり、周りの親族でお世話になった先輩方の死に直面し、色々なことを考えます。
今日、NHKの大河ドラマ「江」の中で、天下人に登りつめようとする織田信長と江姫との会話の中に、「自分の思う通りに生きる」の江姫の言葉に、信長は「思いは長くかかるが、人生は短い」とあった。
私も52年の人生を歩んで来ました。高校を卒業し、3年の行きつ戻りつの中で、建築と言う分野を決め、勉強と経験を詰めこんだ10年、社会勉強の足りなさから社会づくりの仕組みを学び仲間を作った10年、多様な分野の方々を探し交流すために動き続けた10年、アッと言う間に22歳から30年が過ぎていました。
昨年は家族の入院、子どもたちそれぞれの進学、父の高齢を感じる出来事、加えて選挙という生活の大きな激変もあり、周りへも大きな影響を与えた一年でした。人は、一人では生きて行けません。助けあいの大切さをを学んだ年でした。
自分の人生、明日どうなるかは分かりません。だからこそ、一日一日を大切に生きなかければならないと思います。
100年前は、人生50年と言われていました。今は、人生80年と言われます。私の祖父は40年前79才で、祖母は8年前に100才で亡くなりました。長寿者社会の中でも、短命の方もたくさんいます。私の同級生も数名、病気などで亡くなりました。
今日のお坊さんの講話で「朝に紅顔、夕に白骨」の人生の短さを語っていましたが、人生80年時代になり、人生の後半、特に晩年をどう生きるかが大事と思います。
日本社会は、海外から超高齢化社会のサンプルとして注目されています。少子化、自殺の増加等「ジャパン・シンドローム」の表現で、日本の成熟社会、特に人口構成から来る地方の変化が注目されています。
そんな難しい問題は、後日に回しますが、60代、70代にどんな生き方をするのか? 私自身は、まだまだ日々のことで精いっぱいで、後の時代を想像できませんが、22歳から「10年×3回り」を振り返ると、日々毎日の積み重ねしか、足跡(人生)を残す方法は無いとも感じます。
私は、自分を活かす方向(行動)を常に模索して来ました。今後も同様に、広がった仲間と語りながら、自分の目指す「周りを元気する」の方向どこか、今年も日々の生活・仕事の中から、変化(気付き、ニーズ)を見つけながら、新たなネットワークづくりへチャレンジしたいと思います。
>「朝に紅顔、夕に白骨」=人の人生は、朝露の如し。
とありますが、1年は365日、1日は24時間あります。この時間を、自分だけでなく私を取り巻く様々な人々の思いを知り、それぞれがより良き人生を歩めるように、自分の目指す方向を常に修正し、これからの10年を生きるために、もがき、苦しみ、考え、日々行動し続けたいと思います。
しかし、日々全力を尽くす必要はありますが、むやみやたらの行動ではいけないと思います。「知行合一」の教えは、゛考え即行動゛の意味ですが、だらこそ考えること(思考)が大事と思います。
・思考の三原則
一、目先にとらわれず、できるだけ長い目で見る。
二、一面だけ見ないで、なるべく多面的、できれば全面的に観察する。
三、枝葉末節を見ないで、根本を見る。
それと、私の行動の中には、多くの偶然が何度か有りました。その出来事は、すべて「興味+行動」から起こりました。地域づくりの先輩は、「人生に偶然はない、全て必然」と強調します。
でも、゛その時そこへ行かなかったら゛の出会いが多々ありました。それをただの偶然と済ますか、「ラッキー」と思い、次の再会を約束するかだけの違いで、後の人生(生活・仕事)が変わります。私の偉業交流会の出会いは、けっこう偶然の出会いから、仲間が増えて行きました。
その偶然に「意志」がこもっているかで、人とのつながりが形になるか、後で大きく変わります。偶然から人生が変わる、それを楽しむゆとりも必要と思います。
・不尽の妙味(みょうみ)~「偶然」の面白さ~
偶然を人生の事実として平たく考えてみると、これまたなかなか面白いものである。これがないと、杓子定規になって味わいがない。偶然に人に会い、偶然に書を読む。人生全て偶然の連結と、却(かえ)って不尽の妙味がある。
(以上、『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』より)
人生、何時の時代に、何処に生まれるかで、人生は違いがあります。しかし、生まれ落ちた場所(時代)で、どう自分の人生を切り開くかは、その人次第と思います。
時代や周りの状況を原因にして、自分を向上させない、仲間づくりをしない、周りを明るくするような行ないをしない、では自分の人生も暗くなる。龍馬のように、「常に明るく、前のめり」に生きたいものです。