ジョギング再開と、「人物の見分け方」は難しい

2007年11月19日

ジョギング再開と、「人物の見分け方」は難しい

 久々にジョギングをはじめました。ちょうど一年前に、10区間25.5kmの距離を、地元の10校の小中学校PTAがつなぐ駅伝があったのですが、私は2ヶ月半のジョギングを練習を積み重ねて、25.5kmを一人で完走することに挑戦し、最終区の10区ではふらふらになりながら、走り終えたことを思い出します。
 あれ以来、娘たちに受験、入学、更にPTA役員引継ぎ、春夏とまちづくりの仕事等で、なかなか走れなかったですが、意を決して(少々大げさですが)やっと、走りはじめました。昨年の今頃は、毎日10kmを走っていたのですが、きょうはやっと400mをゆっくり5周、それの休み休みでした。やはり、継続は力だなと思います。

 さて、ここ3日間、キッズサッカー、地域おこし団体、あるいは横井小楠顕彰事業、フェアトレード活動等で、色々な人に会ったのですが、人物評価はむずかしいなと思います。私は、人間10年くらい付き合わないと解からないと言って(逃げて?)います。でも、人の評価はとても難しいと思います。
 年に、1~2回読む、安岡正篤先生の「一日一言」の一説に「人物の見分け方」なるものがありました。漢詩まじりの言葉で、私にはいつも難解なのですが、でもとても勉強になっています。本文を転載します。


・人物の見分け方

「大事・難事には担当を看る。逆境・順境には襟度を看る。臨喜・臨怒には涵養を看る。群行・群止には識見を看る」

 これは呂新吾の呻吟語(しんぎんご)に出てくる言葉であるが、大事難事が起ったときは、人の担当力を看るだけでなく、自分自身がどう対処し得るかと内省する意味がある。
 逆境順境に襟度を看るは、襟は心であり、度は度量である。
 臨喜臨怒に涵養を看るは、喜びや悲しみに際して恬淡(てんたん)としているか、どんなに怒るかとか思っていると悠揚(ゆうよう)としているなど、平生深く養っておればそれが出ることだ。
 群行群止とは、大勢の人間と一緒の行動をしているとき、その人の見識が現れること。
(一日一言より)


 何もなく平穏無事の時は、人間性はなかなか見えないものですが、危機とか、災害、不当な圧力、瀕死の重傷、或いは貧乏に陥ったとき、逆に地位が上がる、権威を持つ等、日常と違った時に、人間性が出ると先人が説いています。

 また、西郷隆盛は、学問とは「危機管理のため」(西郷南州遺訓)とも説いた言葉も有あります。そう考えると、私の思いの「せめて10年くらい付き合わないと良くわからない」もまちがっていないように思います。
 人間危機に臨んだときこそ、本性と真の知恵が湧き出ると信じています。数は少なくて良いですから、心振るわせるような出会いを楽しみに、明日もやってみたいと思います。 

 何日続くか分かりませんが、ジョギングを無理をせず、できるときやるスタイルで、1年ぶりに続けること挑戦したいと思います。中年のオヤジたちも、寒さに負けずに何か運動を始めると、忘年会も乗り切れるかもしれません。今年も残り40日ちょっと、元気に頑張りましょう。

  

Posted by ノグチ(noguchi) at 21:44Comments(0)マイライフ