壁を越えるのは、熟練者でなく素人(挑戦者)
2007年11月10日
壁を越えるのは、熟練者でなく素人(挑戦者)
今日は、社会人なって初めて全国高校サッカー選手権、熊本県の決勝を見に行きました。
県の決勝を体験するのは、32年前に高校時代インターハイ県予選で優勝して以来です。観
戦したきっかけは、決勝に進んだチームのセンターフォワードが、私の地元中学出身で、
少年サッカー育成会で応援に行こうと有志があつまり、大人20名、中学生、小学生40名の
地元応援団を編成して臨みました。
結果は、延長戦の末、1-0の勝利でした。県関係者が期待はしたものの、常勝チーム
(7連覇)の下馬評で沈滞ムードの県予選を、今回準決勝で8連覇を止め、念願の全国の
切符を手しました。
保護者は別として、サッカー関係者も目を醒まされた出来事でした。久々の県の決勝選、
少々熱くなって応援をしました。
7連覇中の常勝チーム「大津高校」へ挑んだチーム「ルーテル高校」は、春も夏も、大
津高校に負けていました。今回、準決勝で当たり、劣勢と思われたルーテル高校は、3年
生を中心に挑戦者の気持ち忘れずやろうと、前半から飛ばし2点取り流れをつかみ、後半
の猛反撃をかわし2-0で勝利しました。バスケットの能代高校ではないですが、常勝の
気の緩みが、大津高校に有ったのではと、大きな話題になっています。
さて話は変わりますが、自動車メーカー「フォード」の創始者ヘンリー・フォードの技
術革新の考え方は、新しい試みに熟練工でなく、未経験者を管理職に当てたそうです。そ
の真意は、
「なぜなら彼ら(熟練工)は、「できない」ことをあまりにも多く知りすぎており、「そ
れはできまん」と断定してしまうからである。」と語ったそうです。
一度、フォードの海外工場で、一日2台の車を作っていたのを、改善のため一日8台つ
くる体制を作ろうとしたら、熟練工は「2台でも精一杯なのに、8台も作ったら身体を壊
してしまう」とやる前から及び腰になり、退職者が続出した。仕方なく未経験者を雇い、
8台生産プログラム作り、やってみると8台作ってもけろりとやっていたそうです。挑戦
心が無くなってやる仕事での思い込み(壁)の解消はむずかしいと思います。
今日の試合、全国の切符がいつも入ると思い込んだ、大津高校や県下のサッカー関係者
は、多くの経験を積む指導者たちですが、上記の熟練工と同じで、「既成概念」の弊害で
挑戦心と、同じ高校生であること忘れていたと思います。
ルーテル高校の高校生は、今年が始めての高校3年生で、選手権のベテランでは無く、
未経験者だったと思います。常にチャレンジャーだったから、今回の勝利がもぎ取れたと
思います。
壁を越える考え方をソニー創業者の井深大氏が、本田宗一郎さんについて語っています。
「技術者として、本田さんと私の間に共通していたのは、二人とも厳密に言えば技術の専
門家でなく、ある意味で素人だったということでしょう。」
また同じことを、長野オリンピックのスピードスケート500メートル金メダリスト・
清水宏保さんが、34秒台の世界新記録を出した時、語った言葉は
「常にスケートの素人でありたいと思っています。かつて、『34秒台の記録はムリだ』
と言われていましたが、達成することができました。今同じように『33秒台はムリだ』
とスケートを知る人はみんな言っています。しかし、『ムリ』と思ったら、記録はそこで
止まってしまいます。こと記録に関しては、素人でありたいと思っています。」
頂点を目指し続ける人の言葉は、静かに語りますが、心揺さぶられる思いがします。
最後に、スイスに詩人 フレデック・アミエルの言葉に次のものがあります。
「決心する前に、完全に見通しをつけようとする者は、決心することができない。」
壁をつくるのは人間の気持ちしだい。目の前にある壁のほとんどは、「できるはずかな
い」という思い込みにすぎないのでは・・。
ときには、いい意味の素人になって「とりあえずやってみるか」と挑戦することが必要
な気がします。意外と、簡単に壁を越えることができるかもしれません。
今日は、18歳の挑戦者たちの真剣な試合を見て、感動をもらいました。私も気持ちだ
けは、挑戦者の気持ちを持ち続けたいと思っています。
今日は、社会人なって初めて全国高校サッカー選手権、熊本県の決勝を見に行きました。
県の決勝を体験するのは、32年前に高校時代インターハイ県予選で優勝して以来です。観
戦したきっかけは、決勝に進んだチームのセンターフォワードが、私の地元中学出身で、
少年サッカー育成会で応援に行こうと有志があつまり、大人20名、中学生、小学生40名の
地元応援団を編成して臨みました。
結果は、延長戦の末、1-0の勝利でした。県関係者が期待はしたものの、常勝チーム
(7連覇)の下馬評で沈滞ムードの県予選を、今回準決勝で8連覇を止め、念願の全国の
切符を手しました。
保護者は別として、サッカー関係者も目を醒まされた出来事でした。久々の県の決勝選、
少々熱くなって応援をしました。
7連覇中の常勝チーム「大津高校」へ挑んだチーム「ルーテル高校」は、春も夏も、大
津高校に負けていました。今回、準決勝で当たり、劣勢と思われたルーテル高校は、3年
生を中心に挑戦者の気持ち忘れずやろうと、前半から飛ばし2点取り流れをつかみ、後半
の猛反撃をかわし2-0で勝利しました。バスケットの能代高校ではないですが、常勝の
気の緩みが、大津高校に有ったのではと、大きな話題になっています。
さて話は変わりますが、自動車メーカー「フォード」の創始者ヘンリー・フォードの技
術革新の考え方は、新しい試みに熟練工でなく、未経験者を管理職に当てたそうです。そ
の真意は、
「なぜなら彼ら(熟練工)は、「できない」ことをあまりにも多く知りすぎており、「そ
れはできまん」と断定してしまうからである。」と語ったそうです。
一度、フォードの海外工場で、一日2台の車を作っていたのを、改善のため一日8台つ
くる体制を作ろうとしたら、熟練工は「2台でも精一杯なのに、8台も作ったら身体を壊
してしまう」とやる前から及び腰になり、退職者が続出した。仕方なく未経験者を雇い、
8台生産プログラム作り、やってみると8台作ってもけろりとやっていたそうです。挑戦
心が無くなってやる仕事での思い込み(壁)の解消はむずかしいと思います。
今日の試合、全国の切符がいつも入ると思い込んだ、大津高校や県下のサッカー関係者
は、多くの経験を積む指導者たちですが、上記の熟練工と同じで、「既成概念」の弊害で
挑戦心と、同じ高校生であること忘れていたと思います。
ルーテル高校の高校生は、今年が始めての高校3年生で、選手権のベテランでは無く、
未経験者だったと思います。常にチャレンジャーだったから、今回の勝利がもぎ取れたと
思います。
壁を越える考え方をソニー創業者の井深大氏が、本田宗一郎さんについて語っています。
「技術者として、本田さんと私の間に共通していたのは、二人とも厳密に言えば技術の専
門家でなく、ある意味で素人だったということでしょう。」
また同じことを、長野オリンピックのスピードスケート500メートル金メダリスト・
清水宏保さんが、34秒台の世界新記録を出した時、語った言葉は
「常にスケートの素人でありたいと思っています。かつて、『34秒台の記録はムリだ』
と言われていましたが、達成することができました。今同じように『33秒台はムリだ』
とスケートを知る人はみんな言っています。しかし、『ムリ』と思ったら、記録はそこで
止まってしまいます。こと記録に関しては、素人でありたいと思っています。」
頂点を目指し続ける人の言葉は、静かに語りますが、心揺さぶられる思いがします。
最後に、スイスに詩人 フレデック・アミエルの言葉に次のものがあります。
「決心する前に、完全に見通しをつけようとする者は、決心することができない。」
壁をつくるのは人間の気持ちしだい。目の前にある壁のほとんどは、「できるはずかな
い」という思い込みにすぎないのでは・・。
ときには、いい意味の素人になって「とりあえずやってみるか」と挑戦することが必要
な気がします。意外と、簡単に壁を越えることができるかもしれません。
今日は、18歳の挑戦者たちの真剣な試合を見て、感動をもらいました。私も気持ちだ
けは、挑戦者の気持ちを持ち続けたいと思っています。
ケネディの残した゛チャレンジ・スピリット゛(その2)
2007年11月10日
・ケネディの残した゛チャレンジ・スピリット゛(その2)
トルーマンはケネディに呼びかけた。
「ケネディ上院議員、1961年1月に大統領の役職に就くことに関して、あなた自が国家のた
めに用意が出来ているか、同時に国家があなたを受け入れる時機にあるとお考えか。あな
たが将来政治的頂点に昇りつめるであろうことに、私は一片の疑念の抱かない。しかし、今
私は現在および近い将来の世界の状況に関して、非常に心配しかつ心を痛めている。だか
らこそ私は、出来る限り成熟し、経験を富んだ人間の登場を希望しているのだ。あなたはま
だ若い。もう少し辛抱して待つこと要請したい。」
ケネディの反応は電撃的かつパワフルな正論に満ちたものだった。
「トルーマン氏は1960年の候補として私が降りることを提言した。私は誰の要請であろうと降
りるつもりはない。
全部の予備選に出てリスクを冒したのは私だけであり、全ての州を訪れたのも私だけだっ
た。私はあらゆる障害と反対に直面して生き残って来た。大会直前の今になって名前を引っ
込めるということはできない。・・(中略)・・
44歳以下の人間を信頼と指導力が要求される地位から除外するなら、ジェファーソンは独
立宣言を書いていなかったであろうし、ワシントンは大陸軍を指揮していなかったであろう。
また、マディソンは合衆国憲法を書けなかったし、クレイは下院の議長になれなかった。そし
てかのクリストファー・コロンブスはアメリカを発見していなかった。」
ここでケネヂディは、ホコ先を年寄りに向けてシャープな一撃を加える。
「今日、鉄のカーテンの両側にいる世界的なリーダーの大部分は、65歳以上の人間ばかり
というのは事実である。今日の世界が、国際状況が二つの世界大戦によって変えられる以
前に教育された人間たちによって支配されているいうのも、事実である。
しかし、彼らが果たして世界の運命を変えるのに、どれほど成功したといえるのだろうか。
彼ら19世紀に生まれた人間たちにとってかわるのは誰なのだろうか。世界は変わっている
のだ。古いやり方はもはや通用しないのだ。・・(中略)・・」
そしてエンディングは、次の言葉だった。
「今こそ新しい機会と新しい問題に取り組むための新しいリーダシップが必要な時なのだ。
われわれの前には全く新しい世界が横たわっている。それは平和と善意に満ちた世界であ
り、希望と豊富さに満ちた世界である。アメリカはその導き役とならねばならない。
トルーマン氏は私が用意ができているかと尋ねた。今私は、100年前、アブラハム・リンカ
ーンがまだ大統領になる前、多くの老練な政治家の攻撃にさらされながら書いた言葉を思
い出さずにいられない。゛私には嵐が来るのが見える、そしてその嵐の中に神の手があるこ
とを知っている。もし神が私に場所を仕事を与えるなら、私はその用意ができていると信じて
いる゛。今日、私は大統領職という最も大きな責任を十分に自覚し、それを心に刻んだ上で
あなた方に言いたい。もし国民が私を大統領に選ぶなら、私は用意ができていると信じる、
と。」
この8日後、ベテラン政治家を寄せ付けず、第1回目の投票で民主党大統領候補に座を
獲得した。
(今日の出来事)
今日も地域の先輩と話をしました。私の社会活動の先生の師・松前重義氏(東海大学創
始者)は、82歳の時に特に世界的貢献を起こされました。私の先生こと、高宗昭敏氏(九州
東海大学名誉教授)が、まだ40代だったと思いますが、松前総長に、「総長お元気ですね」
と尋ねた時、松前氏は次のように応えられたそうです。
「高宗君、ぼくは今青春だよ」
年齢は関係なく、常に前をみて考え行動している人に、高齢の意識は無いし、その時期に、
松前氏が残した功績が今の東海大学を作った感じています。
いくら年をとっても、「青春だよ」と言える人生をやってみたいですね。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
・ジョン・F・ケネディの言葉 トピック
http://mixi.jp/list_bbs.pl?id=1484223&type=bbs
トルーマンはケネディに呼びかけた。
「ケネディ上院議員、1961年1月に大統領の役職に就くことに関して、あなた自が国家のた
めに用意が出来ているか、同時に国家があなたを受け入れる時機にあるとお考えか。あな
たが将来政治的頂点に昇りつめるであろうことに、私は一片の疑念の抱かない。しかし、今
私は現在および近い将来の世界の状況に関して、非常に心配しかつ心を痛めている。だか
らこそ私は、出来る限り成熟し、経験を富んだ人間の登場を希望しているのだ。あなたはま
だ若い。もう少し辛抱して待つこと要請したい。」
ケネディの反応は電撃的かつパワフルな正論に満ちたものだった。
「トルーマン氏は1960年の候補として私が降りることを提言した。私は誰の要請であろうと降
りるつもりはない。
全部の予備選に出てリスクを冒したのは私だけであり、全ての州を訪れたのも私だけだっ
た。私はあらゆる障害と反対に直面して生き残って来た。大会直前の今になって名前を引っ
込めるということはできない。・・(中略)・・
44歳以下の人間を信頼と指導力が要求される地位から除外するなら、ジェファーソンは独
立宣言を書いていなかったであろうし、ワシントンは大陸軍を指揮していなかったであろう。
また、マディソンは合衆国憲法を書けなかったし、クレイは下院の議長になれなかった。そし
てかのクリストファー・コロンブスはアメリカを発見していなかった。」
ここでケネヂディは、ホコ先を年寄りに向けてシャープな一撃を加える。
「今日、鉄のカーテンの両側にいる世界的なリーダーの大部分は、65歳以上の人間ばかり
というのは事実である。今日の世界が、国際状況が二つの世界大戦によって変えられる以
前に教育された人間たちによって支配されているいうのも、事実である。
しかし、彼らが果たして世界の運命を変えるのに、どれほど成功したといえるのだろうか。
彼ら19世紀に生まれた人間たちにとってかわるのは誰なのだろうか。世界は変わっている
のだ。古いやり方はもはや通用しないのだ。・・(中略)・・」
そしてエンディングは、次の言葉だった。
「今こそ新しい機会と新しい問題に取り組むための新しいリーダシップが必要な時なのだ。
われわれの前には全く新しい世界が横たわっている。それは平和と善意に満ちた世界であ
り、希望と豊富さに満ちた世界である。アメリカはその導き役とならねばならない。
トルーマン氏は私が用意ができているかと尋ねた。今私は、100年前、アブラハム・リンカ
ーンがまだ大統領になる前、多くの老練な政治家の攻撃にさらされながら書いた言葉を思
い出さずにいられない。゛私には嵐が来るのが見える、そしてその嵐の中に神の手があるこ
とを知っている。もし神が私に場所を仕事を与えるなら、私はその用意ができていると信じて
いる゛。今日、私は大統領職という最も大きな責任を十分に自覚し、それを心に刻んだ上で
あなた方に言いたい。もし国民が私を大統領に選ぶなら、私は用意ができていると信じる、
と。」
この8日後、ベテラン政治家を寄せ付けず、第1回目の投票で民主党大統領候補に座を
獲得した。
(今日の出来事)
今日も地域の先輩と話をしました。私の社会活動の先生の師・松前重義氏(東海大学創
始者)は、82歳の時に特に世界的貢献を起こされました。私の先生こと、高宗昭敏氏(九州
東海大学名誉教授)が、まだ40代だったと思いますが、松前総長に、「総長お元気ですね」
と尋ねた時、松前氏は次のように応えられたそうです。
「高宗君、ぼくは今青春だよ」
年齢は関係なく、常に前をみて考え行動している人に、高齢の意識は無いし、その時期に、
松前氏が残した功績が今の東海大学を作った感じています。
いくら年をとっても、「青春だよ」と言える人生をやってみたいですね。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
・ジョン・F・ケネディの言葉 トピック
http://mixi.jp/list_bbs.pl?id=1484223&type=bbs
ケネディの残した゛チャレンジ・スピリット゛(その1)
2007年11月10日
ケネディの残した゛チャレンジ・スピリット゛(その1)
ジョン・F・ケネディのことを久々に書きます。
ケネディ兄弟が残したもの(ケネディ・レガシー)、彼らがその短い人生において人々に
示したものは、一言で言えば不可能に挑戦し、それをひとつひとつ打つ破っていく゛チャレ
ンジング・スピリット(挑戦の精神)゛であった。1960年の大統領選に出馬したジョン・F
・ケネディは、それまでの候補者には考えられないほどのハンディを背負っていた。
第一は、肉体的なハンディキャップ。一見健康そうに見えた彼だが、その身体は幼少期から
アディソン氏病に侵されていた。背骨の痛みやひんぱんに襲った熱は、生まれつきのもので
あった。
1947年治療のためにイギリスに渡り、診察を受けたとき医師は「彼の命は1年待持つまい」
と友人に語った。また、1954年上院議員時代、背骨の手術を行ったが、そのときのカトリッ
クの神父が手術台に横たわるケネディに、ラスト・ライト(死んで行く物への儀式)を施し
たという。投薬による副作用で、苦痛のため眠れぬ夜が何週間も続いたが、強力な意志とト
ップをきわめる決意で、完璧に隠し通した。
(注)アディソン氏病:慢性の副腎機能不全によって起る病気。無気力症状、食欲減退、低
血圧など。以前は不治の病でしたが、現在は治療法も見つかり普通の生活ができる。
第二に、彼がカトリックの信者だったこと。圧倒的にプロテスタントの多いアメリカでカト
リックが大統領になるなど、当時は考えられなかった。民主党のボス連中は、カトリックで
ある限り選挙には勝てないと考え、出馬に反対した。市民の反応も、10人中7人が゛ダメだ。
彼はカトリックだ゛と応えたと言います。
この圧倒的不利な状況に対してケネディは我慢強く説得を続けた。どのような馬鹿げた質
問に対しても、一度として彼は怒りを爆発させる事はなかった。スピーチの一部を紹介します。
「・・今回の選挙に勝ために自分の考えを変えたり、教会を変えたりもしない。(中略)
どのような教会を信ずるかではなく、どのようなアメリカを信ずるかについて語りたい。
私は宗教と国家が絶対的に分立しているアメリカを信じている。(中略)
もし、真に重要政策をめぐる論争をして選挙に敗れたなら、私は全力を尽くし、公正な審
判が下されたという満足感をもって上院にもどる。・・・」
当初、ケネディの忍耐強い説得にもかかわらず、投票日には490万人のアメリカ人が、宗
教上の理由だけでニクソンについたと言われています。
*参考資料:落合信彦著「ケネディからの伝言」より
ジョン・F・ケネディのことを久々に書きます。
ケネディ兄弟が残したもの(ケネディ・レガシー)、彼らがその短い人生において人々に
示したものは、一言で言えば不可能に挑戦し、それをひとつひとつ打つ破っていく゛チャレ
ンジング・スピリット(挑戦の精神)゛であった。1960年の大統領選に出馬したジョン・F
・ケネディは、それまでの候補者には考えられないほどのハンディを背負っていた。
第一は、肉体的なハンディキャップ。一見健康そうに見えた彼だが、その身体は幼少期から
アディソン氏病に侵されていた。背骨の痛みやひんぱんに襲った熱は、生まれつきのもので
あった。
1947年治療のためにイギリスに渡り、診察を受けたとき医師は「彼の命は1年待持つまい」
と友人に語った。また、1954年上院議員時代、背骨の手術を行ったが、そのときのカトリッ
クの神父が手術台に横たわるケネディに、ラスト・ライト(死んで行く物への儀式)を施し
たという。投薬による副作用で、苦痛のため眠れぬ夜が何週間も続いたが、強力な意志とト
ップをきわめる決意で、完璧に隠し通した。
(注)アディソン氏病:慢性の副腎機能不全によって起る病気。無気力症状、食欲減退、低
血圧など。以前は不治の病でしたが、現在は治療法も見つかり普通の生活ができる。
第二に、彼がカトリックの信者だったこと。圧倒的にプロテスタントの多いアメリカでカト
リックが大統領になるなど、当時は考えられなかった。民主党のボス連中は、カトリックで
ある限り選挙には勝てないと考え、出馬に反対した。市民の反応も、10人中7人が゛ダメだ。
彼はカトリックだ゛と応えたと言います。
この圧倒的不利な状況に対してケネディは我慢強く説得を続けた。どのような馬鹿げた質
問に対しても、一度として彼は怒りを爆発させる事はなかった。スピーチの一部を紹介します。
「・・今回の選挙に勝ために自分の考えを変えたり、教会を変えたりもしない。(中略)
どのような教会を信ずるかではなく、どのようなアメリカを信ずるかについて語りたい。
私は宗教と国家が絶対的に分立しているアメリカを信じている。(中略)
もし、真に重要政策をめぐる論争をして選挙に敗れたなら、私は全力を尽くし、公正な審
判が下されたという満足感をもって上院にもどる。・・・」
当初、ケネディの忍耐強い説得にもかかわらず、投票日には490万人のアメリカ人が、宗
教上の理由だけでニクソンについたと言われています。
*参考資料:落合信彦著「ケネディからの伝言」より