食卓の会話で子供は知恵を身につける。〜曽野綾子語録より〜
2022年01月10日
食卓の会話で子供は知恵を身につける。〜曽野綾子語録より〜
(長文です。お時間ある時にお読みください。)
3連休、昨日は地域の新年の寄り合いに、挨拶をして回る日でした。コロナ禍前は、寄り合い後に懇親会があり、歩いて自治会を梯子する必要がありました。しかし、コロナ禍で懇親会をするところがなくなったのです。新年の寄り合いも様変わりしました。
さて冒頭の言葉は、コロナ禍とは関係ない話ですが、曽野綾子著『ただ一人の個性を創るために』にあるページの見出しです。
(以下、そのページの一節から抜粋)
家庭は最初に個性がぶつかるところである。家庭は休むところだと言うが、決して思いのままにはならない。行こうと思っているうちに、弟に先にトイレに入られてしまった。母親が勝手に物を片づける。父親が呑んべえの客を連れてきて、その客がまたいつまでも帰らないものだからやかましくて眠れない。
(以上、本より)
なんてことが、昔はよくあったように思います。しかし、今は、
(以下、本より転載)
最近、家庭というものがなくなった。子供は家へ帰っても、アルバイトに出る。お母さんはまだ帰っていなくて、鍵っ子になる。お父さんの帰りも遅い。ご飯の時には、母も子もテレビを見ているから、お互いの会話もない。朝も、子供が一人で起きて、何も食べずに出て行く家も多いという。(中略)
家庭がなくなった、と言ったら、「アパートで庭がなくなったから、家庭もなくなったんですよ」と言った人がいた。
(以上、『ただ一人個性を創るために』より)
なんか、殺伐とした都会の風景を想像されると思いますが、都会だけでなくて、田舎も車社会になり、道々ですれ違いする時に、会話することも無くなっていて、疎遠社会は地方ほど広がっているのでは、と心配します。
へんな話ですが、私は議員をしているから、車ですれ違った時に頭を下げているのではなく、昔は歩く文化でしたから、すれ違った時に会釈をするのは普通でした。しかし、今は「私はこの地域に、お世話になっています」の意思表示として、地域の道路を通行する時には、必ず頭を下げ(会釈し)たり、手を上げたりして、意思を伝えるシグナルを送る行動をするのです。車社会の田舎の心遣いでしょうか。
これをめんどくさい、と思う人たちは、田舎を出て都会に出るのでしょうが、曽野綾子の本を読むと、どちらが良いのかは、当人が決めるしかない、と思いました。また本に、以下のことが書かれています。
(以下、本より)
子供たちが、この最初の教育の場である家庭からあまり学ばなくなった理由はいくかあるが、一つは個室を与えれるのが当然ということになったからだろう。(中略)
中国にも、マレーシアにも、インドネシアにも大家族が一つ屋根の下に暮らす生活がある。大勢です暮らせば寂しくない。その代わり妬み、不満、反感などがいつも家の中に渦巻いている。しかし、その中で、人は究極の人間学を学ぶだろう。心理的、経済的に、貧困と贅沢な双方の中で、子供たちは人生を学ぶ。
(以上、本より)
この本のこの一節は、いつかコメントにしようと考えていました。私は建築士、それも建物や住宅の設計が専門です。また子育てをしてきた親でもあります。
親の役割の一つが、子供の教育だと思います。この教育は、後々子供の人生にも大きく影響を与えていきます。
スポーツ好きな親だったら、野球、ゴルフ、サッカー、・・・
学者の子どもは、勉強、塾、進学校、有名大学、・・・
音楽好きな親は、ピアノ、吹奏楽、マーチングバンド、音大、留学、・・・
<野口家の子育て>
さて我が家は、スポーツ、勉強、音楽は、全部中途半端だったような?
ただ小中学生の時は、夕食は必ず家族一緒を守っていました。そんな子どもたちも、それぞれ職業に就き、今自らの人生を生きています。
<野口家の子供部屋>
我が家の子ども部屋は、ドアでなくてアコーディオンカーテンで仕切り、プレイルームで、子ども部屋がつながっています。リビングが吹き抜けで、そのプレイルームとは、オープンにできるガラス戸で、有機的につながっています。個室でありながら、完全個室ではない作りが、子どもたちの人生に何を伝えたか?はわかりませんが、設計者としての家庭の在り方を試行錯誤していたなぁ、と本読み振り返りました。
長文を最後までお読みいただきありがとうございました。
(長文です。お時間ある時にお読みください。)
3連休、昨日は地域の新年の寄り合いに、挨拶をして回る日でした。コロナ禍前は、寄り合い後に懇親会があり、歩いて自治会を梯子する必要がありました。しかし、コロナ禍で懇親会をするところがなくなったのです。新年の寄り合いも様変わりしました。
さて冒頭の言葉は、コロナ禍とは関係ない話ですが、曽野綾子著『ただ一人の個性を創るために』にあるページの見出しです。
(以下、そのページの一節から抜粋)
家庭は最初に個性がぶつかるところである。家庭は休むところだと言うが、決して思いのままにはならない。行こうと思っているうちに、弟に先にトイレに入られてしまった。母親が勝手に物を片づける。父親が呑んべえの客を連れてきて、その客がまたいつまでも帰らないものだからやかましくて眠れない。
(以上、本より)
なんてことが、昔はよくあったように思います。しかし、今は、
(以下、本より転載)
最近、家庭というものがなくなった。子供は家へ帰っても、アルバイトに出る。お母さんはまだ帰っていなくて、鍵っ子になる。お父さんの帰りも遅い。ご飯の時には、母も子もテレビを見ているから、お互いの会話もない。朝も、子供が一人で起きて、何も食べずに出て行く家も多いという。(中略)
家庭がなくなった、と言ったら、「アパートで庭がなくなったから、家庭もなくなったんですよ」と言った人がいた。
(以上、『ただ一人個性を創るために』より)
なんか、殺伐とした都会の風景を想像されると思いますが、都会だけでなくて、田舎も車社会になり、道々ですれ違いする時に、会話することも無くなっていて、疎遠社会は地方ほど広がっているのでは、と心配します。
へんな話ですが、私は議員をしているから、車ですれ違った時に頭を下げているのではなく、昔は歩く文化でしたから、すれ違った時に会釈をするのは普通でした。しかし、今は「私はこの地域に、お世話になっています」の意思表示として、地域の道路を通行する時には、必ず頭を下げ(会釈し)たり、手を上げたりして、意思を伝えるシグナルを送る行動をするのです。車社会の田舎の心遣いでしょうか。
これをめんどくさい、と思う人たちは、田舎を出て都会に出るのでしょうが、曽野綾子の本を読むと、どちらが良いのかは、当人が決めるしかない、と思いました。また本に、以下のことが書かれています。
(以下、本より)
子供たちが、この最初の教育の場である家庭からあまり学ばなくなった理由はいくかあるが、一つは個室を与えれるのが当然ということになったからだろう。(中略)
中国にも、マレーシアにも、インドネシアにも大家族が一つ屋根の下に暮らす生活がある。大勢です暮らせば寂しくない。その代わり妬み、不満、反感などがいつも家の中に渦巻いている。しかし、その中で、人は究極の人間学を学ぶだろう。心理的、経済的に、貧困と贅沢な双方の中で、子供たちは人生を学ぶ。
(以上、本より)
この本のこの一節は、いつかコメントにしようと考えていました。私は建築士、それも建物や住宅の設計が専門です。また子育てをしてきた親でもあります。
親の役割の一つが、子供の教育だと思います。この教育は、後々子供の人生にも大きく影響を与えていきます。
スポーツ好きな親だったら、野球、ゴルフ、サッカー、・・・
学者の子どもは、勉強、塾、進学校、有名大学、・・・
音楽好きな親は、ピアノ、吹奏楽、マーチングバンド、音大、留学、・・・
<野口家の子育て>
さて我が家は、スポーツ、勉強、音楽は、全部中途半端だったような?
ただ小中学生の時は、夕食は必ず家族一緒を守っていました。そんな子どもたちも、それぞれ職業に就き、今自らの人生を生きています。
<野口家の子供部屋>
我が家の子ども部屋は、ドアでなくてアコーディオンカーテンで仕切り、プレイルームで、子ども部屋がつながっています。リビングが吹き抜けで、そのプレイルームとは、オープンにできるガラス戸で、有機的につながっています。個室でありながら、完全個室ではない作りが、子どもたちの人生に何を伝えたか?はわかりませんが、設計者としての家庭の在り方を試行錯誤していたなぁ、と本読み振り返りました。
長文を最後までお読みいただきありがとうございました。
Posted by ノグチ(noguchi) at
07:40
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