新潟県の泉田知事の発言に注目をしています。
2013年07月02日
新潟県の泉田裕彦知事の発言に注目しています。
電力会社が、いっせいに再稼働へ向け、認可申請に向け動き始めた。自民党政権の原発容認の動きに、反応するようにじゅんびがはじまった。私は、二年前の4月7日の朝、静岡の活動かと20km制限境界地まで出向いた。人っ子一人いない世界、動物も鳥も飛ばない空、あれからまだたった2年、国民は放射能の危機感はなくなったか。
新潟の泉田知事は、はっきり県民の民意を理解し、拒否の発言を示した。泉田知事は、水俣病の救済措置でも、自治体の首長として、現状の認定基準の矛盾を突き、国に認定やり直しをもとめている。
(以下、webニュースより)
東電が柏崎刈羽再稼働申請の意向表明、新潟知事は猛反発
地元新潟県の泉田裕彦知事は「立地地域との信頼関係を構築する意思がないものと受け取らざるを得ない」などとコメントし、強い不快感を示した。
新潟県の泉田知事は、柏崎刈羽の再稼働の是非について「福島第1原発事故の検証・総括が必要」との考えを繰り返し指摘しており、東電から再稼働申請の動きがあった場合は 「 信頼関係を破壊する」(6月12日の記者会見)と、強い口調で警告していた。また、規制委が策定した新規制基準についても「福島事故の検証・総括なくしてなぜ安全基準が作れるのか」と否定的な見解を示してきた。(略)
(以上、転載)
政治家の資質が問われておると思います。原発、水俣病、平成と昭和の公害に対する首長の経験と地域への思いが、今回の発言で政治家の積み上げて来た経験が、現職知事としての言葉になるのだともます。
国政の衆議院「0増5減」の対処に対して、影響を受ける自治体、県の反応みて、首長の経験と地域への愛着、次世代の広域自治の見識がだいぶ違うと感じます。今後、関わる県知事の発言に注目をしています。
電力会社が、いっせいに再稼働へ向け、認可申請に向け動き始めた。自民党政権の原発容認の動きに、反応するようにじゅんびがはじまった。私は、二年前の4月7日の朝、静岡の活動かと20km制限境界地まで出向いた。人っ子一人いない世界、動物も鳥も飛ばない空、あれからまだたった2年、国民は放射能の危機感はなくなったか。
新潟の泉田知事は、はっきり県民の民意を理解し、拒否の発言を示した。泉田知事は、水俣病の救済措置でも、自治体の首長として、現状の認定基準の矛盾を突き、国に認定やり直しをもとめている。
(以下、webニュースより)
東電が柏崎刈羽再稼働申請の意向表明、新潟知事は猛反発
地元新潟県の泉田裕彦知事は「立地地域との信頼関係を構築する意思がないものと受け取らざるを得ない」などとコメントし、強い不快感を示した。
新潟県の泉田知事は、柏崎刈羽の再稼働の是非について「福島第1原発事故の検証・総括が必要」との考えを繰り返し指摘しており、東電から再稼働申請の動きがあった場合は 「 信頼関係を破壊する」(6月12日の記者会見)と、強い口調で警告していた。また、規制委が策定した新規制基準についても「福島事故の検証・総括なくしてなぜ安全基準が作れるのか」と否定的な見解を示してきた。(略)
(以上、転載)
政治家の資質が問われておると思います。原発、水俣病、平成と昭和の公害に対する首長の経験と地域への思いが、今回の発言で政治家の積み上げて来た経験が、現職知事としての言葉になるのだともます。
国政の衆議院「0増5減」の対処に対して、影響を受ける自治体、県の反応みて、首長の経験と地域への愛着、次世代の広域自治の見識がだいぶ違うと感じます。今後、関わる県知事の発言に注目をしています。
Posted by ノグチ(noguchi) at
22:42
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一家譲なければ一国譲に興る。紛争地域におもう、譲と仁はあるか?
2013年07月02日
一家譲なれば一国譲に興る。紛争地域に思う「譲」と「仁」はあるか?
朝の日課、ウオーキングと山林の下草刈りを終えて、新聞目を通し、朝読書で中国古典の『大学』の解説書を読みながら、ニュースのデモを思い出し、下の言葉に至りました。
一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興る
(意味)上に立つ者の家に仁や譲の徳がゆきわたっていれば、下々の者もそれを見習って、国中に仁や譲の気風が興ってくる。政治論としてはいささか甘いかもしれないが、上に立つものは自ら姿勢を正すところに意味がある。
米沢藩の藩校「興譲館」は、上杉鷹山公がここから取っている。先人の思いが伝わってくる。
また、家の中に、仁や譲があふれるにはどうすえうのか?
家族を和合させるには、まずわが身を修める。「修身」は自分の徳を磨くことが、もちろん必要ですが、 中国古典の『大学』には、えこひいきのない公平な対応とある。
孔子の生きた中国は、おおむね大家族で、三代、四代にわたる何十人の家族で、中には妻妾同居の家も珍しくなかった。それを和合させるのであるから、偏りのない公平性が強調されたのかもしれない。
さらに、さかのぼって修身について解説は、「身を修むるはその心を正すに存り。人間心には「性」と「情」がある。性は生まれもっている徳性。情は感情・欲望だが心を正すことを曇らせる。
『大学』の教示に「修身、斉家、治国、平天下」が根幹にあるのですが、役を行う人は、自分の家庭の和合を図り、その前に自分の徳性を磨くこと「修身」が必要とある。
上杉鷹山が藩校の名前に使うほど、「譲る」心を育てることが大事だと最近つくづく思います。奪い合えば足りないが、譲り合えば余る。家も国家も譲り合う気風を広げたいものです。
これから、地域の社会福祉協議会の総会はあり、でかけます。
朝の日課、ウオーキングと山林の下草刈りを終えて、新聞目を通し、朝読書で中国古典の『大学』の解説書を読みながら、ニュースのデモを思い出し、下の言葉に至りました。
一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興る
(意味)上に立つ者の家に仁や譲の徳がゆきわたっていれば、下々の者もそれを見習って、国中に仁や譲の気風が興ってくる。政治論としてはいささか甘いかもしれないが、上に立つものは自ら姿勢を正すところに意味がある。
米沢藩の藩校「興譲館」は、上杉鷹山公がここから取っている。先人の思いが伝わってくる。
また、家の中に、仁や譲があふれるにはどうすえうのか?
家族を和合させるには、まずわが身を修める。「修身」は自分の徳を磨くことが、もちろん必要ですが、 中国古典の『大学』には、えこひいきのない公平な対応とある。
孔子の生きた中国は、おおむね大家族で、三代、四代にわたる何十人の家族で、中には妻妾同居の家も珍しくなかった。それを和合させるのであるから、偏りのない公平性が強調されたのかもしれない。
さらに、さかのぼって修身について解説は、「身を修むるはその心を正すに存り。人間心には「性」と「情」がある。性は生まれもっている徳性。情は感情・欲望だが心を正すことを曇らせる。
『大学』の教示に「修身、斉家、治国、平天下」が根幹にあるのですが、役を行う人は、自分の家庭の和合を図り、その前に自分の徳性を磨くこと「修身」が必要とある。
上杉鷹山が藩校の名前に使うほど、「譲る」心を育てることが大事だと最近つくづく思います。奪い合えば足りないが、譲り合えば余る。家も国家も譲り合う気風を広げたいものです。
これから、地域の社会福祉協議会の総会はあり、でかけます。
心の学問「陽明学」は、究極の民主主義?〜中江藤樹〜
2013年07月02日
心の学問「陽明学」は、究極の民主主義?〜中江藤樹〜
中江藤樹は、日本に陽明学を導入した先駆者だが、中江藤樹は陽明学の心髄に1644年に触れ、「これだ!」叫んだ。
そもそも陽明学の元は、論語だが、それから広がった朱子学に疑問をもち悩みつづけたq。それでいきついた「仁」の解釈は、次のようなものです。
仁を実践できる人は「聖人」と中江藤樹が解説している。
(以下、『論語より陽明学』より)
「聖人」は、すべての他者へ平等に接する寛容さを持ち、すべての人から尊敬される。
互いが互いをごく自然に支え合う。これをして、こんにち風の言葉で表すならば"究極の民主主義"ともいえます。
(以上、抜粋)
中江藤樹は、もともと近江商人だった。近江商人の商道倫理に「三方良し」がある。正直商売が、近江商人の基本。陽明学と「三方良し」は、誠心誠意の生き方につながるのではないかと、思いました。
中江藤樹は、日本に陽明学を導入した先駆者だが、中江藤樹は陽明学の心髄に1644年に触れ、「これだ!」叫んだ。
そもそも陽明学の元は、論語だが、それから広がった朱子学に疑問をもち悩みつづけたq。それでいきついた「仁」の解釈は、次のようなものです。
仁を実践できる人は「聖人」と中江藤樹が解説している。
(以下、『論語より陽明学』より)
「聖人」は、すべての他者へ平等に接する寛容さを持ち、すべての人から尊敬される。
互いが互いをごく自然に支え合う。これをして、こんにち風の言葉で表すならば"究極の民主主義"ともいえます。
(以上、抜粋)
中江藤樹は、もともと近江商人だった。近江商人の商道倫理に「三方良し」がある。正直商売が、近江商人の基本。陽明学と「三方良し」は、誠心誠意の生き方につながるのではないかと、思いました。