田中正造は、「足尾鉱毒問題」の根本解決目指した
2007年12月15日
田中正造は、「足尾鉱毒問題」の根本解決目指した
久々に、(熊本)田中正造研究会に出席しました。ご縁は、6年前くらいでしょうか、龍馬会がご縁で、熊本駅近くの公民館で、まちづくりの講話会があり参加したのがきっかけでした。私は、これまでPTA役員をしていたこともあり、土曜日がなかなかタイミング合わず、サボリ気味の会員ですがずっと、田中正造に興味を持ち、学びたい気持ちを持っていました。
この田中正造研究会は、十数年前に数名の方から始まり、中身に来い議論と熊本の偉人と田中正造の関わりをテーマに、研究活動の続けて来られました。そのリーダーが、田中正造の研究を続けて来られた、小松裕先生です。
最近は、田中正造が全国の知人へ送った書簡を読む研究ですが、足尾鉱毒被害に政治的な原因究明と責任の糾弾、更に当時の時代背景も含め、田中正造の思いと事件調査と救済、さらに以後の公害防止の理念を広げるべく、活動をし続けたことを検証し、その心境を学ぶことにあります。
私の場合は、中途会員ですが、田中正造の生き様に、触れれば触れるほど、今の自分の生き方を照らし合わせると、身が引き締まる緊張感を持ちます。西郷隆盛の生き方(理念)を現した言葉に「敬天愛人」というテーマを思いこしますが、田中正造にもその理念があるように感じます。
今日の勉強会で、明治30年の春の政局のことが書かれているのですが、田中正造も属する政党「進歩党」が、連立内閣を組んだ事で、時の農務省大臣に同党の大熊重信が就任した。田中氏は、足尾鉱毒被害の原因究明と、人権侵害の改善、さらに自然再生を最後は訴え続けるのですが、時の権力者は冷たい政策を出し続けます。
そんなとき、3月29日農民は、足尾から東京まで、ムシロ旗を掲げ700名が大挙し、政府各省、議会、新聞社へ鉱毒のひがいを訴えた出来事がありました。
その次の日の、国会のでの変化を見て、田中正造が怒ります。その意味は、下記の書簡から触れることが出来ます。
(一部抜粋)
尾崎行雄ほか宛て書簡
犬養毅馬鹿、尾崎行雄馬鹿、イカナレバ伯(大熊重信)を農商の大臣とせしハ馬鹿の馬鹿、大馬鹿三太郎よりも大馬鹿なり。・・・(本文より転載)
これは、犬養毅、尾崎行雄と、他4名の進歩党の党員にも送られています。
この意味は、田中正造は選挙活動の一つに、足尾鉱毒被害の救済を自分の政治政党に利用していることに、思われるがとても嫌だったようです。
田中氏は、本当に「私利私欲の無い方」だったと思います。思い出した言葉に、「滅私奉公」「敬天愛人」ですが、民衆が受けた被害の根本的な解決がなかった。話はそれますが、現代の川辺川ダム問題、水俣救済訴訟に踏み込まない政府があると感じます。
その後、連立内閣で翻弄される進歩党の政治家は、「党利」と個人の「名誉」しか頭になく、中には「足尾鉱毒被害はたいした事がない、もっと大事なのは連立内閣でどのポストの付くか」です。それに対して、田中正造が反論します。
曽我兄弟は父の敵に一生を終え、佐倉宗五郎は人民の為に死せり。足尾鉱毒被害は、人口30万人、農地4万丁に被害が及んだ。ところが党員は、次期内閣でどのポストになるか、多くの時間と人生プランを考える機会になりました。
この言葉を言ったのは、進歩党の重鎮ですが、この発言に興味持ち、どう改善するかが発展の分岐点になると思いました。
明治後期の話で、上記の質問の答えを検証し、更に理解を深める事が必要と思います。
その議論で、今日の問題になった「生存権」「人権」の思いが、地域活動の経験のする中で、自分自身今日の意見交換はとても緊張しました。
今日は、一人の中正造研究会会員として、感じたことを今日は書きました。
久々に、(熊本)田中正造研究会に出席しました。ご縁は、6年前くらいでしょうか、龍馬会がご縁で、熊本駅近くの公民館で、まちづくりの講話会があり参加したのがきっかけでした。私は、これまでPTA役員をしていたこともあり、土曜日がなかなかタイミング合わず、サボリ気味の会員ですがずっと、田中正造に興味を持ち、学びたい気持ちを持っていました。
この田中正造研究会は、十数年前に数名の方から始まり、中身に来い議論と熊本の偉人と田中正造の関わりをテーマに、研究活動の続けて来られました。そのリーダーが、田中正造の研究を続けて来られた、小松裕先生です。
最近は、田中正造が全国の知人へ送った書簡を読む研究ですが、足尾鉱毒被害に政治的な原因究明と責任の糾弾、更に当時の時代背景も含め、田中正造の思いと事件調査と救済、さらに以後の公害防止の理念を広げるべく、活動をし続けたことを検証し、その心境を学ぶことにあります。
私の場合は、中途会員ですが、田中正造の生き様に、触れれば触れるほど、今の自分の生き方を照らし合わせると、身が引き締まる緊張感を持ちます。西郷隆盛の生き方(理念)を現した言葉に「敬天愛人」というテーマを思いこしますが、田中正造にもその理念があるように感じます。
今日の勉強会で、明治30年の春の政局のことが書かれているのですが、田中正造も属する政党「進歩党」が、連立内閣を組んだ事で、時の農務省大臣に同党の大熊重信が就任した。田中氏は、足尾鉱毒被害の原因究明と、人権侵害の改善、さらに自然再生を最後は訴え続けるのですが、時の権力者は冷たい政策を出し続けます。
そんなとき、3月29日農民は、足尾から東京まで、ムシロ旗を掲げ700名が大挙し、政府各省、議会、新聞社へ鉱毒のひがいを訴えた出来事がありました。
その次の日の、国会のでの変化を見て、田中正造が怒ります。その意味は、下記の書簡から触れることが出来ます。
(一部抜粋)
尾崎行雄ほか宛て書簡
犬養毅馬鹿、尾崎行雄馬鹿、イカナレバ伯(大熊重信)を農商の大臣とせしハ馬鹿の馬鹿、大馬鹿三太郎よりも大馬鹿なり。・・・(本文より転載)
これは、犬養毅、尾崎行雄と、他4名の進歩党の党員にも送られています。
この意味は、田中正造は選挙活動の一つに、足尾鉱毒被害の救済を自分の政治政党に利用していることに、思われるがとても嫌だったようです。
田中氏は、本当に「私利私欲の無い方」だったと思います。思い出した言葉に、「滅私奉公」「敬天愛人」ですが、民衆が受けた被害の根本的な解決がなかった。話はそれますが、現代の川辺川ダム問題、水俣救済訴訟に踏み込まない政府があると感じます。
その後、連立内閣で翻弄される進歩党の政治家は、「党利」と個人の「名誉」しか頭になく、中には「足尾鉱毒被害はたいした事がない、もっと大事なのは連立内閣でどのポストの付くか」です。それに対して、田中正造が反論します。
曽我兄弟は父の敵に一生を終え、佐倉宗五郎は人民の為に死せり。足尾鉱毒被害は、人口30万人、農地4万丁に被害が及んだ。ところが党員は、次期内閣でどのポストになるか、多くの時間と人生プランを考える機会になりました。
この言葉を言ったのは、進歩党の重鎮ですが、この発言に興味持ち、どう改善するかが発展の分岐点になると思いました。
明治後期の話で、上記の質問の答えを検証し、更に理解を深める事が必要と思います。
その議論で、今日の問題になった「生存権」「人権」の思いが、地域活動の経験のする中で、自分自身今日の意見交換はとても緊張しました。
今日は、一人の中正造研究会会員として、感じたことを今日は書きました。
人と付き合うとは、違いを許容することから始まる。〜曽野綾子著『人びとの中の私』〜
文明社会には、青年には青年の、老人には老人の、貢献するべき余地がある。〜渋澤栄一〜
久しぶりに横井小楠記念館「四時軒」に寄りました。
<今朝の名言>さまざまな社会の出来事を非難する人がいます。政府にも、行政にも、さらに職場でも・・・
江戸時代、土佐弁は、江戸者が語ることばと区別かつかなかった。〜司馬遼太郎〜
八代亜紀さんがお亡くなりになりました。安らかにお休みください。ご冥福をお祈りいたします。
文明社会には、青年には青年の、老人には老人の、貢献するべき余地がある。〜渋澤栄一〜
久しぶりに横井小楠記念館「四時軒」に寄りました。
<今朝の名言>さまざまな社会の出来事を非難する人がいます。政府にも、行政にも、さらに職場でも・・・
江戸時代、土佐弁は、江戸者が語ることばと区別かつかなかった。〜司馬遼太郎〜
八代亜紀さんがお亡くなりになりました。安らかにお休みください。ご冥福をお祈りいたします。
Posted by ノグチ(noguchi) at 23:39│Comments(0)
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