「200年ほど前に大きな津波が来て、生き延びた人たちは被害のなかった高台に移った」〜福島県相馬市の市民活動家〜
2021年03月10日

<10年前の東北視察から>「200年ほど前に大きな津波が来て、みんな流され、生き延びた人たちは被害のなかった高台に移った」〜福島県相馬市の市民活動家〜
今朝の新聞コラム『文化』を読みながら、10年前の東北の被災地訪問のことを思い出しました。
(以下、コラムから抜粋)
政治学者の中島岳志氏は、
>3.11とコロナ危機は、近代をどう反省的に見るのかという意味で密接に絡みます。コロナ危機では人類の行き過ぎた開発が、自然の奥に潜むウィルスとの接点を生んだとも言われます。
民族学者の赤坂憲雄氏は、
>被災地では、津波で流された場所を指して「昔は海だった」と語る人に出会いました。それは開発の所産です。自然と人間を分つ海岸線は自明なものではなかったのに、最大に膨張した人口や経済力が生み出した2011年の境界が前提とされ、巨大な膨張堤で守る必要があるか、というあるべき議論が封じられた。
(以上、熊日『文化』ページより)
私は、10年前、震災直後の4月5〜8日東北の被災地を自らレンタカーを運転して回った。目的は、熊本から送り出したボランティアの活動拠点を見て回ることと、被災地の状況の視察でした。その当時は、まだ自衛隊が入り、どうにか通行できるだけの道を確保される程度で、通行できないところは大きく迂回したり、戻ったりしながら、福島県相馬市〜岩手県陸前高田市まで海岸線を回った。
初日は、福島県相馬市の避難所となっていた中学校体育館の体育倉庫を貸してもらい寝袋で寝た。翌日、相馬市の市民活動家に同行して海岸沿いにあるご自宅まで連れて行ってもらった。車の中で、
「私の住む地域は、200年ほど前は無かった。それは、200年ほど前に大きな津波が来て、みんな流され、生き延びた人たちは被害のなかった高台に移った。(その方向を指差して)あの辺りが、200年ほど前の津波被害の境界です」。
その方向を観て、被害の無い宅地を確認した。そして、
「人間の欲が、その高台から少しずつ、少しづつ海岸へと近づき、ついに私の住む地域に家がたくさん建てられた」
と話されました。この方の自宅は、1階は理髪店の4階建で、4階まで津波が来ていました。
被災地を回って3日目の夜、相馬市の体育館で寝るのですが、寝入って直ぐの深夜11時半過ぎ、震度6弱の余震があり、津波警報も出て、避難所が騒然となった。私の寝た体育倉庫に積まれ支援物資が全部落ち、危うく埋まろうとしました。その余震のひどいところは、震度6強の揺れがありました。
話が長くなりました。その時の市民活動家の話と、今日の新聞の話しが結びつき、「人間の欲望」が、"3.11もコロナも、引き起こしているのではないか?"と、朝から思いました。

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