「抜けるなら金かリンチ」少女暴走族の怖い実態(序列好き日本)
2009年07月06日
(序列好きの日本)親に七つ年上の姉と比べられるのも、嫌だった
■「抜けるなら金かリンチ」…少女暴走族の怖い実態
(読売新聞 - 07月06日 07:12)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=889238&media_id=20
>親への反発、家出◆
> 元メンバーの少女(17)は、幼稚園の頃から、両親に「中学受験しろ」と言われ、期待に応えようと頑張ったが、いい成績をとっても、「もっと上を目指せ」とハッパをかけられるだけだった。自分のことを認めてもらえない。中学3年になると、学校へ行かず、家出を繰り返した。
> 「仲間のところは、居心地がよかった」。コンビニエンスストアの前にたむろしていると、声をかけられ、仲間の輪が広がった。いつの間にか暴走族へ入り、夜の公園や駐車場でたむろするのが楽しかった。
> 中学の同級生だった少女(18)にも声をかけた。「一緒にやらない?」
> 誘われた少女も、中学時代は優等生だったが、高校では成績が伸びず、やる気を失った。親に七つ年上の姉と比べられるのも、嫌だった。
今日の話題は、暴走族の発端が、「親がこどもの個性」を認めない、理解出来ないことが原因のように思えます。
親、兄弟、姉妹と、ついつい比較してしまう日本人。さらに、
「だれだれさんは、同じだったのに、成績があがらないね」
「なになにちゃんは、早くから塾へいったのに、どうして行こうとしないの」「父のようになりなさい、母のようになりなさい、・・・」
世間一般の、レールに乗せようと、子供の尻を叩く現代の親たち、・・・
臨床心理士で、京都大学教授の故河井隼雄死の著書「子どもと学校」に次の一節がありました。
(本文、転載)
大学にある程度の差があることは、欧米においても避けられないだろう。しかし、わが国のように細かい順序づけがなされているところはない。これは、大学人としては、各大学が大学としての個性をもっていないことをまず反省すべきだろう。
各大学が多様な個性をもてば、それを一様に順序づけることができないし、受験生は大学の個性と自分の個性とのからみで大学の選択をするので、すべての人が特定のひとつの大学へ行きたがるなどということがなくなって、少しは受験競争も緩和されるであろう。
しかし、ここで大学側からの弁解を多少言わせていただくと、大学側が少しくらいの個性を差を示しても、そんなものは問題にしないほど、日本人の一様序列性を好む傾向は強いのである。(中略)
(以上、河井隼雄著「子どもと学校」より)
まず、親自身が「個性を大事に」と言いつつも、受験時期になると、周りの常識(序列評価表)で、大学を輪切りにして上下を設け、親の見栄からか、受験雑誌の序列で、なるべく上位のランキングにある大学(高校)を目指すように仕向け、その期待に応えならない子供は、愛情を注げなくなる。
これは、親が親になっていない現実と思います。その親自身、どんな歴史を踏んできたのだろうと思いますし、親子もこの世に出会った「奇跡」によってつながっただけではないかと思います。子供は、親の所有物を勘違いしている人が、いかに多いかと言うことではないかと思います。
この現象は、高学歴の親が陥りがちな現象で、序列国家日本の数奇な国民性と思います。
首都東京大学総長の西澤潤一博士の著書「私の独創教育論」でも、同じ指摘がなされていた。「知識偏重の詰め込み教育では、日本の独創性が失われている」と厳しく論じてもおられます。
また、昭和の東洋哲学者の故安岡正篤氏は、「日本人は、何でも飲み込んで、溶融し、新たな整理を施し、きれいな形にして世に出す能力がある。これは、世界に類を見ない個性」と語っておられます。
西澤氏は、中学生の後半から高校生の時は、独創力の芽生えの時期で、多感な感性を伸ばし時期だそうで、この時期に知識を詰め込むことだけの一様な教育が続けられている日本の「オリジナリティー」の能力(力量)が、下がっているように危惧しているとも語っています。
ただ、子どもたちも、小学校以来刷り込まれた「一様序列性を好む傾向」が染み付き、親子関係がその一点で、ぎくしゃくしていくことは、さみしいことであると思います。
本来、親は子どもを愛しみ、子どもは親を敬慕する。ただただ、一流大学を全員が一緒に目指す社会は、現実の社会とはちょっと乖離していて、その矛盾を、よのリーダーたちが無視している現実に大きな問題の原因があると思います。
「リンチ」と「金」、・・・「派遣切り」と「増税」の構図に少し似ていると感じます。
一握りのリーダーたちだけが、現代の豊かさを謳歌できる教育制度の連鎖性、国を支える低所得者層の人々の声が聴こえないところに問題があるし、それを野放しにしている国民意識の変革も必要と思います。
個性を伸ばす教育を望むであれば、まず現代の親自身が、「一様序列性を好む傾向」の刷り込み(トラウマ)から、逃れるように社会の現実にしっかり目を向け、学び続ける習慣を付けることが必要な気がします。
この件に関して、皆様から色々ご意見を頂ければ幸いです。
*参考資料:河井隼雄著「子どもと学校」
■「抜けるなら金かリンチ」…少女暴走族の怖い実態
(読売新聞 - 07月06日 07:12)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=889238&media_id=20
>親への反発、家出◆
> 元メンバーの少女(17)は、幼稚園の頃から、両親に「中学受験しろ」と言われ、期待に応えようと頑張ったが、いい成績をとっても、「もっと上を目指せ」とハッパをかけられるだけだった。自分のことを認めてもらえない。中学3年になると、学校へ行かず、家出を繰り返した。
> 「仲間のところは、居心地がよかった」。コンビニエンスストアの前にたむろしていると、声をかけられ、仲間の輪が広がった。いつの間にか暴走族へ入り、夜の公園や駐車場でたむろするのが楽しかった。
> 中学の同級生だった少女(18)にも声をかけた。「一緒にやらない?」
> 誘われた少女も、中学時代は優等生だったが、高校では成績が伸びず、やる気を失った。親に七つ年上の姉と比べられるのも、嫌だった。
今日の話題は、暴走族の発端が、「親がこどもの個性」を認めない、理解出来ないことが原因のように思えます。
親、兄弟、姉妹と、ついつい比較してしまう日本人。さらに、
「だれだれさんは、同じだったのに、成績があがらないね」
「なになにちゃんは、早くから塾へいったのに、どうして行こうとしないの」「父のようになりなさい、母のようになりなさい、・・・」
世間一般の、レールに乗せようと、子供の尻を叩く現代の親たち、・・・
臨床心理士で、京都大学教授の故河井隼雄死の著書「子どもと学校」に次の一節がありました。
(本文、転載)
大学にある程度の差があることは、欧米においても避けられないだろう。しかし、わが国のように細かい順序づけがなされているところはない。これは、大学人としては、各大学が大学としての個性をもっていないことをまず反省すべきだろう。
各大学が多様な個性をもてば、それを一様に順序づけることができないし、受験生は大学の個性と自分の個性とのからみで大学の選択をするので、すべての人が特定のひとつの大学へ行きたがるなどということがなくなって、少しは受験競争も緩和されるであろう。
しかし、ここで大学側からの弁解を多少言わせていただくと、大学側が少しくらいの個性を差を示しても、そんなものは問題にしないほど、日本人の一様序列性を好む傾向は強いのである。(中略)
(以上、河井隼雄著「子どもと学校」より)
まず、親自身が「個性を大事に」と言いつつも、受験時期になると、周りの常識(序列評価表)で、大学を輪切りにして上下を設け、親の見栄からか、受験雑誌の序列で、なるべく上位のランキングにある大学(高校)を目指すように仕向け、その期待に応えならない子供は、愛情を注げなくなる。
これは、親が親になっていない現実と思います。その親自身、どんな歴史を踏んできたのだろうと思いますし、親子もこの世に出会った「奇跡」によってつながっただけではないかと思います。子供は、親の所有物を勘違いしている人が、いかに多いかと言うことではないかと思います。
この現象は、高学歴の親が陥りがちな現象で、序列国家日本の数奇な国民性と思います。
首都東京大学総長の西澤潤一博士の著書「私の独創教育論」でも、同じ指摘がなされていた。「知識偏重の詰め込み教育では、日本の独創性が失われている」と厳しく論じてもおられます。
また、昭和の東洋哲学者の故安岡正篤氏は、「日本人は、何でも飲み込んで、溶融し、新たな整理を施し、きれいな形にして世に出す能力がある。これは、世界に類を見ない個性」と語っておられます。
西澤氏は、中学生の後半から高校生の時は、独創力の芽生えの時期で、多感な感性を伸ばし時期だそうで、この時期に知識を詰め込むことだけの一様な教育が続けられている日本の「オリジナリティー」の能力(力量)が、下がっているように危惧しているとも語っています。
ただ、子どもたちも、小学校以来刷り込まれた「一様序列性を好む傾向」が染み付き、親子関係がその一点で、ぎくしゃくしていくことは、さみしいことであると思います。
本来、親は子どもを愛しみ、子どもは親を敬慕する。ただただ、一流大学を全員が一緒に目指す社会は、現実の社会とはちょっと乖離していて、その矛盾を、よのリーダーたちが無視している現実に大きな問題の原因があると思います。
「リンチ」と「金」、・・・「派遣切り」と「増税」の構図に少し似ていると感じます。
一握りのリーダーたちだけが、現代の豊かさを謳歌できる教育制度の連鎖性、国を支える低所得者層の人々の声が聴こえないところに問題があるし、それを野放しにしている国民意識の変革も必要と思います。
個性を伸ばす教育を望むであれば、まず現代の親自身が、「一様序列性を好む傾向」の刷り込み(トラウマ)から、逃れるように社会の現実にしっかり目を向け、学び続ける習慣を付けることが必要な気がします。
この件に関して、皆様から色々ご意見を頂ければ幸いです。
*参考資料:河井隼雄著「子どもと学校」
<公立高校定員割れ>県庁所在地の県立の進学校のクラスを減らす要求が出ないのが不思議でならない。
★『世界で最も貧しい大統領=ウルグアイ元大統領 ホセ・ムヒカ』の言葉
51年前、私も宇土高校の門をくぐり入学しました。(笑)変わらない母校の姿。
<生活習慣と学力>規則正しい生活習慣と本のある家、本を読む習慣。〜岸本裕史〜
<今朝の名言>さまざまな社会の出来事を非難する人がいます。政府にも、行政にも、さらに職場でも・・・
放課後児童クラブ(学童保育)の学習会。〜発達障がいの対応は、一般化ではなく、その子らしさの尊重〜
★『世界で最も貧しい大統領=ウルグアイ元大統領 ホセ・ムヒカ』の言葉
51年前、私も宇土高校の門をくぐり入学しました。(笑)変わらない母校の姿。
<生活習慣と学力>規則正しい生活習慣と本のある家、本を読む習慣。〜岸本裕史〜
<今朝の名言>さまざまな社会の出来事を非難する人がいます。政府にも、行政にも、さらに職場でも・・・
放課後児童クラブ(学童保育)の学習会。〜発達障がいの対応は、一般化ではなく、その子らしさの尊重〜
Posted by ノグチ(noguchi) at 12:05│Comments(0)
│教育問題