(ガンジー)「人生で最も大切な時間」+秘策「塩の道」
2008年11月21日
(ガンジー)「人生で最も大切な時間」+秘策「塩の道」
インド独立の父「マハトマ・ガンジー」を知らない人はないと言われるインドで、大航海時代から戦前まで、目を覆うばかりに迫害、悪政が、イギリスによってなされていました。その権力に無抵抗で、独立を勝ち得たリーダーがガンジーです。
ガンジーは、裕福な家に育ち、イギリスで学び弁護士になります。仕事でやむなく南アフリカへ行き、衝撃の体験をします。南アフリカに赴任して間もない頃、列車で依頼主の元へ向かう途中、一等席に居たガンジーに車掌が「インド人のお前は貨車へ移れ!」「有色人種は出て行け!」と迫ったのです。この時ガンジーは、
「この理不尽な差別に屈してインドに戻るなら、私は臆病者だ。この不正を糾(ただ)すために私は闘う」
と決意した。当時の南アフリカは、インド人が歩道を歩く自由をなかった。
ガンジーが歩道を歩いていると警官の止め、目の前で登録証に火をつけた。警官はガンジーを殴りつけた。このガンジーの行動を数千人が支持し行動をともにした。政府が外国人登録証の携帯義務を廃止した。
ガンジーは22年ぶりにインドに返り、それまでの富裕層の独立運動派とは別に、農村や貧困層を中心として運動を起こした。ガンジーのシンボル゛糸車゛は、「イギリス製の衣服を買うのでなく、自分で作ろう! イギリスに依存している゛暮らし゛を変えよう」と訴えた。
これで、イギリス政府が「集会禁止令」をひき、抗議集会あつまった活動家400名が死ぬ大惨事になった。ガンジーは、「このまま暴力を放置すれば、さらなる暴力の泥沼にすべての人々が踏み入れてしまうでしょう。今こそ、立ち止まって考え直さなければならないのです」、政府はガンジーを逮捕しました。弾圧が激化して行きます。
1929年に憲法改正の議会に、インド人が参加していないのに、各地で抗議行動が起り、一触即発の状況でした。ガンジーは「このままでは武力衝突になる」と危機を感じ、再び運動の先頭に立ちます。1930年3月12日、400キロ先の海に向かって歩き始めます。当時、インドでは法律で製塩が禁止され、イギリスが統制する法外な税金をかけた塩を買わされていました。
ガンジーの「塩の行進」に対し、ネルーやチャンドラ・ボーズたちは、゛塩゛のような小さな問題こだわるのか、やり方が生ぬるい」と批判しました。イギリス政府も「物笑いの種、放っておいてかわまない」とたかをくくっていた。
ところが24日目に到達するのですが、民衆の賛同を得て日に日に参加者が増えていきます。ガンジーは、
「この塩で、大英帝国を根底から揺さぶるのです! たとえ手首が切り落とされようとも、掴んだ塩を放してなりません! インドの誇りは、この塩にあるのです!」
この運動は、五百万人が参加し、本国が危機感を感じ「帝国の威信にかけて、反政府運動を鎮圧する」と、警官は懇望に鉄板巻いて、海岸で塩を取る人々を容赦なく叩き続けました。叩かれても叩かれても、ガンジーの唱える「非暴力」を守りました。ガンジーは捕らえれました。怒った暴徒は製塩場へ行きますが、詩人のサロジニー・ナイドゥーは民衆に語りかけます。
「ガンジーの肉体は刑務所につながれていますが、彼の魂は私たちと共にあります。いかなることがあっても、暴力に訴えてはなりません。抵抗せず、打たれて下さい」
殴られても、殴られても、倒れた仲間を越えて製塩場へ行きます。アメリカの新聞はこのデモを一面トップで報じました。
「これほど悲惨な光景を見たことはない。その痛ましさに、私は顔を背けざるをえなかった。驚くべきはインド人の規律だ。彼らは、残酷な暴力に対し、非暴力を完全に抜き通した」
年が明けた1月19日、国際世論の高まりに、イギリス政府は総督府に「今後ガンジーを大英帝国の交渉相手とせよ」と通達。ガンジーは釈放され、「塩の製造」と10万人の政治犯を全員解放した。
1947年8月15日、インドはついに悲願の独立を勝ち取ります。しかし、1948年1月、悲運にもガンジーは宗教紛争の調停中に凶弾に倒れます。78歳。
ガンジーの死後、非暴力運動は世界各地で受け継がれていきました。人間の尊厳と自由をうったえるガンジーの精神は、今も人々の心に行き続けています。ガンジーは死を前に、こんな言葉を残しています。
「誰かが私に銃を向けても、私が微笑みながら銃口に向かうことができたなら、そして、銃弾を受けても、心に神の名を唱えることができたなら、その時こそ私は、祝福に値するものとなるでしょう」
偉人の遺訓は、静かですが突き動かす力を持っています。
ガンジーの遺訓の中で、私にとってとても大事な言葉あります。多分シンボル「糸車」の活動を現した言葉と思いますが、私のプロフィールの重要な訓示にもなっています。
「We must become the change we want to be.」
私たちは自らが目指す変化そのものにならなければいけない。
重要なのは、志と日々の行動が大事であると説いた言葉と思います。
<以前の日記>
・(地位と顔)自分の本来の顔で生きる~ラ・ロシュフコー~
インド独立の父「マハトマ・ガンジー」を知らない人はないと言われるインドで、大航海時代から戦前まで、目を覆うばかりに迫害、悪政が、イギリスによってなされていました。その権力に無抵抗で、独立を勝ち得たリーダーがガンジーです。
ガンジーは、裕福な家に育ち、イギリスで学び弁護士になります。仕事でやむなく南アフリカへ行き、衝撃の体験をします。南アフリカに赴任して間もない頃、列車で依頼主の元へ向かう途中、一等席に居たガンジーに車掌が「インド人のお前は貨車へ移れ!」「有色人種は出て行け!」と迫ったのです。この時ガンジーは、
「この理不尽な差別に屈してインドに戻るなら、私は臆病者だ。この不正を糾(ただ)すために私は闘う」
と決意した。当時の南アフリカは、インド人が歩道を歩く自由をなかった。
ガンジーが歩道を歩いていると警官の止め、目の前で登録証に火をつけた。警官はガンジーを殴りつけた。このガンジーの行動を数千人が支持し行動をともにした。政府が外国人登録証の携帯義務を廃止した。
ガンジーは22年ぶりにインドに返り、それまでの富裕層の独立運動派とは別に、農村や貧困層を中心として運動を起こした。ガンジーのシンボル゛糸車゛は、「イギリス製の衣服を買うのでなく、自分で作ろう! イギリスに依存している゛暮らし゛を変えよう」と訴えた。
これで、イギリス政府が「集会禁止令」をひき、抗議集会あつまった活動家400名が死ぬ大惨事になった。ガンジーは、「このまま暴力を放置すれば、さらなる暴力の泥沼にすべての人々が踏み入れてしまうでしょう。今こそ、立ち止まって考え直さなければならないのです」、政府はガンジーを逮捕しました。弾圧が激化して行きます。
1929年に憲法改正の議会に、インド人が参加していないのに、各地で抗議行動が起り、一触即発の状況でした。ガンジーは「このままでは武力衝突になる」と危機を感じ、再び運動の先頭に立ちます。1930年3月12日、400キロ先の海に向かって歩き始めます。当時、インドでは法律で製塩が禁止され、イギリスが統制する法外な税金をかけた塩を買わされていました。
ガンジーの「塩の行進」に対し、ネルーやチャンドラ・ボーズたちは、゛塩゛のような小さな問題こだわるのか、やり方が生ぬるい」と批判しました。イギリス政府も「物笑いの種、放っておいてかわまない」とたかをくくっていた。
ところが24日目に到達するのですが、民衆の賛同を得て日に日に参加者が増えていきます。ガンジーは、
「この塩で、大英帝国を根底から揺さぶるのです! たとえ手首が切り落とされようとも、掴んだ塩を放してなりません! インドの誇りは、この塩にあるのです!」
この運動は、五百万人が参加し、本国が危機感を感じ「帝国の威信にかけて、反政府運動を鎮圧する」と、警官は懇望に鉄板巻いて、海岸で塩を取る人々を容赦なく叩き続けました。叩かれても叩かれても、ガンジーの唱える「非暴力」を守りました。ガンジーは捕らえれました。怒った暴徒は製塩場へ行きますが、詩人のサロジニー・ナイドゥーは民衆に語りかけます。
「ガンジーの肉体は刑務所につながれていますが、彼の魂は私たちと共にあります。いかなることがあっても、暴力に訴えてはなりません。抵抗せず、打たれて下さい」
殴られても、殴られても、倒れた仲間を越えて製塩場へ行きます。アメリカの新聞はこのデモを一面トップで報じました。
「これほど悲惨な光景を見たことはない。その痛ましさに、私は顔を背けざるをえなかった。驚くべきはインド人の規律だ。彼らは、残酷な暴力に対し、非暴力を完全に抜き通した」
年が明けた1月19日、国際世論の高まりに、イギリス政府は総督府に「今後ガンジーを大英帝国の交渉相手とせよ」と通達。ガンジーは釈放され、「塩の製造」と10万人の政治犯を全員解放した。
1947年8月15日、インドはついに悲願の独立を勝ち取ります。しかし、1948年1月、悲運にもガンジーは宗教紛争の調停中に凶弾に倒れます。78歳。
ガンジーの死後、非暴力運動は世界各地で受け継がれていきました。人間の尊厳と自由をうったえるガンジーの精神は、今も人々の心に行き続けています。ガンジーは死を前に、こんな言葉を残しています。
「誰かが私に銃を向けても、私が微笑みながら銃口に向かうことができたなら、そして、銃弾を受けても、心に神の名を唱えることができたなら、その時こそ私は、祝福に値するものとなるでしょう」
偉人の遺訓は、静かですが突き動かす力を持っています。
ガンジーの遺訓の中で、私にとってとても大事な言葉あります。多分シンボル「糸車」の活動を現した言葉と思いますが、私のプロフィールの重要な訓示にもなっています。
「We must become the change we want to be.」
私たちは自らが目指す変化そのものにならなければいけない。
重要なのは、志と日々の行動が大事であると説いた言葉と思います。
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地元小学6年生に、太平洋戦争末期に宇土市で起こった戦闘の話した。
環境と経済の両立を目指す「2005.フューチャー500国際シンポジウムin北京」に参加
<台湾の英雄は宇土にルーツ>宇土市と台湾の台南市の日台交流の準備が始まっています。
世界のデジタル競争力は、日本は世界32位、しかし韓国は6位だった。日本のデジタル化の取り組みを前へ。
11月17日の記事
国家意識を現すユーモアとは?〜江沢民(中国・元国家主席)のハワイでのスピーチ〜
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Posted by ノグチ(noguchi) at 01:09│Comments(1)
│国際関係
この記事へのコメント
Posted by ノグチ(noguchi)
at 2008年11月21日 22:11

思い出した、菜根譚の教示です。
・天といえども
天、われに薄くするに福をもってせば、われ、わが徳を厚くしてもってこれをむかえん。
天、われを労するに形をもってせば、われ、わが心を逸にしてもってこれを補わん。
天、われを厄するに遇をもってせば、われ、わが道を亨(とお)らしめてもってこれを通せしめん。
天かつわれをいかんせん。
(意 訳)
もし天が私を冷遇しようというのなら、私は自分の人格をみがくことによって幸福をかちとろう。
もし天が私の肉体で苦痛を与えようとするならば、私は心の平安によって免れてみせよう。
もし天が私にさまざまな障害を与えて人生を妨げようとするならば、私は真理の力によってこれを通り抜けてみせよう。
天といえども、こんな私をどうすることもできない。
(感 想)
ガンジーのように、境遇に打ちのめされるのでなく、志をどう全うするか、試行錯誤を常に忘れずに、実行する事が大事と思います。