下関市~山口市、幕末の史実調査が必要と思い、山口県の図書館回りを8-9日行います。

2013年08月07日

<下関市ー山口市> 幕末の史実調査が必要と思い、山口県の図書館回りを8-9日行います。

明日から、山口県の下関市、防府市の市立図書館、ぞれと山口県立図書館に出向き、幕末維新歴史を調査に行きます。調査目的は、長州から見た熊本の幕末維新を文献を探しにいきます。

実は、「日本外史」を書き上げた頼山陽は、肥後の熊本城下から、熊本県央の宇城地域通り、現在のJR鹿児島本線の松橋駅が港だったのですが、その船着場から天草へ向かいました。有名名句「雲か山か呉か越か・・・・」があるのですが、それを知り、若かりし幕末の志士「久坂玄瑞」が、その道を辿ったように思います。

この遊学は、久坂叔父の進めだったのですが、熊本の幕末の突出した志士の宮部鼎蔵ほうもんしたおり、 長州の吉田松陰に会いなさい。と諭されます。これがきっかけで、久坂は長州帰郷後、松下村塾の門下に導かれて行きます。それが、倒幕に引き金となる「禁門の変(蛤御門の変)」を率いる大将格の「久坂玄瑞」に変貌して行きます。

その頃、熊本では藩政(学問)改革を提案したグループの頭領格が横井小楠です。長州の高杉晋作、福井の橋本左内、幕臣の勝海舟等は、高く評価していました。その熊本の突出した志士が宮部鼎蔵です。当時の久坂玄瑞は、牢屋に入っていた吉田松陰には感心を持っていなかった。宮部鼎蔵に出会い、松下村塾の双璧と評されるリーダー久坂玄瑞に変わって(急成長)行きます。

来春、寺田屋騒動で命を落とした宮部鼎蔵没後150年に当たるのですが、何か認知活動はできないかし案の中で、行き着いたのが、久坂玄瑞が宮部鼎蔵と吉田松陰の交友に導かれ、成長して行くきっかけとなった、宮部鼎蔵の旧居から、長崎への遊学の始まりの道のりを辿る歴史顕彰ウォークを実施するために、幕末の史実の調査必要と思い、山口県の図書館回りを思い立ちました。

明日と明後日、山口(長州)から見た九州、熊本、更には宇土市との関係も調べてみたいと考えています。  

Posted by ノグチ(noguchi) at 22:18Comments(0)マイライフ

杉原千畝(ちうね)領事の決断と昼夜を費やし書き続けた6千枚のビザ

2013年08月07日

杉原千畝(ちうね)領事の決断と昼夜を費やし書き続けた6千枚のビザ

>押し寄せたユダヤ人群衆 □ 1940年(昭和15年)7月27日朝、バルト海沿岸の小国 リトアニアの日本領事館に勤務していた杉原千畝(ちうね)領事は、いつもとは違って、外 がやけに騒がしいのに気がついた。窓の外を見ると、建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くした。・・・・

今日のリトワニア大使と交流で話題になると思われる、第2次世界大戦前夜の東欧での民族排斥で、ユダヤ人の大量難民が出て、その人々を救った日本領事が、リトアニアにいた杉原千畝氏です。ドイツから退去命令が出るギリギリまで、ビザを書き続け、救った数は6000人を超えた。

戦前の人権の平等の考えが、領事職員に定着していたのだろうとおもいます。アメリカも、イギリスもできなかった、イスラエル難民の受け入れ、実は、上海の日本軍樋口少将も同様の行動をとり3万人近いユダヤ人を、日本経由でアメリカやイスラエルへ、逃れさせています。東洋の果ての民族日本人は、人種や出身国等で差別をしなかったのではないか。海外で仕事をした政府要人たちの中には、人権の保護を真剣に実行した人も多かったのかもしれません。

ただ、戦前の日中戦争最中のこと、イスラエル人保護とは反対に、中国への軍事進出は矛盾していると感じます。民族に上下はないと言いつつ、東アジアの中で、経済発展を最初に遂げた日本人は、他の東アジアの諸国に対して、優位な意識はないか? これから、日本人に問われる国際交流の課題と思います。

先月、熊本市で開催された「アフリカこどもの日」で、アフリカからの留学生たちが演じた劇で「平和、正義、団結」が、アフリカに必要と語っていました。これは東アジアにも通じる理念とおもます。この3つ理念を実現するには、勇気を出して、対話のテーブルに揃うことと思います。東アジアのリーダーたちに、勇気を出して対話のテーブルに着こうと呼びかけたい。

ヨーロッパの政争に翻弄されてきた歴史を持つリトアニアから、平和を維持する知恵を学ぶことは、多分にあるとおもっています。午前中の仕事を効率よく済ませ、宇土市の英語版資料を集めて、昼食会へ向かいたいと思います。  

Posted by ノグチ(noguchi) at 09:24Comments(0)国際関係マイライフ