<自ら決めた役割を果たす>自由奔放な生き方と、自らの人生を切り開く自由とは、大きく異なる。
2022年06月11日
<自ら決めた役割を果たす>自由奔放な生き方と、自らの人生を切り開く自由とは、大きく異なる。
「人としてするべきことをするのが自由です」〜インドのカトリック神父の言葉〜
(少々長文です。お時間ある時に、お読みください。)
朝読書から、曽野綾子著『ただ一人の個性を創るために』に、自由について、インドのカトリックの神父との意見交換を見つけた。
freedom と Liberty の違い。同じく「自由」と訳すが、その言葉の意味は大きく違う。
みんな自由になりたくて、学ぶ、働く、貯蓄する。果たして、それが自由を得れる行動なのだろうか?
自由に何々を行なう場合、すべてのことから解放される自由の意味。
いくつかの果たす義務があるけど、それを達成することの中で、自らの選択と行動の自由がある。
曽野綾子さんが見た、インドのスラム街にある安宿に、何ヶ月も一年も、何もせず過ごす日本の数人の青年たちを観察してみた。確かに束縛もなく、自らがアルバイトなどで稼いだ金で、安宿暮らしをしているから、何の束縛も、義務もない。そのような自由を、freedomの自由というらしい。(意味が違っていたらご容赦を)
(以下、『ただ一人の個性を創るために』より)
その日本の青年たちを見て、同行していたカトリックの神父から、聞かれた。
「皆、幸福そうには見えなかった。呆然として、考えを停止しているように見えました」
「そうですね」
と私も賛同した、日記をつけている人もいたし、ひっきりなしに煙草を吸っている人もいた。しかし何もしていない人も多かった。
「彼らは決して自由ではない」
と神父は言った。
「どうしてですか」
と私が尋ねた。彼ら以上に自由な人はなかなかいないだろう、と思われたからだった。
「自分のしたいことをするのが自由ではないてましょう。人としてするべきことをするのが自由です」
するとそこにいた物知りの青年が、共に日本語では「自由」と訳されている「リバティー(Liberty)」と「フリーダム(freedom)」という英語の違いを教えてくれた。「フリーダム」は「何々からの解放」を示す自由であった。だからその言葉が出てくる背景には、束縛するものが存在している。しかし「リバティー」は全く自分で創造し、考え、選び取る自由な生き方である。
「フリーダム」には反対すべき敵が明確に見えているが、「リバティー」は初めから、自分の思想、選択、責任がかかっている。
(以上、本より転載)
長々と曽野綾子さんの体験談を紹介しましたが、日本人の「自由」の認識は、「フリーダム」の方に重きを置いているように感じます。実は、真の自由には、自らの人生への責任があり、周りに対する責任もある「リバティー」のように思います。
>全く自分で創造し、考え、選び取る自由な生き方
私の両親は、私の進路に関して、何も指示することがなかった。中学から高校、高校からさらに進学することに、口を出すことがなかった。
大学浪人から、一旦社会人になり、さらに浪人して、何故が建築の専門学校へ進学するのですが、その時には、私自身に決めた目標があり、そこへ向けて進み出した。
「30歳で建築事務所を開くこと」
実態は、独立は、予定の1年半遅れて31歳と6ヶ月で、設計事務所の認可は31歳と7ヶ月でした。以来、今に至っています。
当時を振り返るに、19〜21歳は、フリーダム的な日々がありましたが、目標が定まった後は、リバティー的な生き方を近づいていったように思います。
あれから、かれこれ40年が過ぎました。果たして、「自分で創造し、考え、選び取る」生き方ができているかは、私がこの世からいなくなってから、子孫たちが語るのだろうと思います。
朝から、哲学的な話になりました。みなさんの考える「自由」とは、どんな生き方でしょうか?、時折りそんなことを考えるのも、意味あるかもしれません。
今日は、中学招待サッカー大会準備と、住吉海岸公園の紫陽花鑑賞の観光客の車誘導係をやります。天気は曇り空ですが、雨が降らないと良いのですが。今日も一日、自らが決めた役割を果たします。
「人としてするべきことをするのが自由です」〜インドのカトリック神父の言葉〜
(少々長文です。お時間ある時に、お読みください。)
朝読書から、曽野綾子著『ただ一人の個性を創るために』に、自由について、インドのカトリックの神父との意見交換を見つけた。
freedom と Liberty の違い。同じく「自由」と訳すが、その言葉の意味は大きく違う。
みんな自由になりたくて、学ぶ、働く、貯蓄する。果たして、それが自由を得れる行動なのだろうか?
自由に何々を行なう場合、すべてのことから解放される自由の意味。
いくつかの果たす義務があるけど、それを達成することの中で、自らの選択と行動の自由がある。
曽野綾子さんが見た、インドのスラム街にある安宿に、何ヶ月も一年も、何もせず過ごす日本の数人の青年たちを観察してみた。確かに束縛もなく、自らがアルバイトなどで稼いだ金で、安宿暮らしをしているから、何の束縛も、義務もない。そのような自由を、freedomの自由というらしい。(意味が違っていたらご容赦を)
(以下、『ただ一人の個性を創るために』より)
その日本の青年たちを見て、同行していたカトリックの神父から、聞かれた。
「皆、幸福そうには見えなかった。呆然として、考えを停止しているように見えました」
「そうですね」
と私も賛同した、日記をつけている人もいたし、ひっきりなしに煙草を吸っている人もいた。しかし何もしていない人も多かった。
「彼らは決して自由ではない」
と神父は言った。
「どうしてですか」
と私が尋ねた。彼ら以上に自由な人はなかなかいないだろう、と思われたからだった。
「自分のしたいことをするのが自由ではないてましょう。人としてするべきことをするのが自由です」
するとそこにいた物知りの青年が、共に日本語では「自由」と訳されている「リバティー(Liberty)」と「フリーダム(freedom)」という英語の違いを教えてくれた。「フリーダム」は「何々からの解放」を示す自由であった。だからその言葉が出てくる背景には、束縛するものが存在している。しかし「リバティー」は全く自分で創造し、考え、選び取る自由な生き方である。
「フリーダム」には反対すべき敵が明確に見えているが、「リバティー」は初めから、自分の思想、選択、責任がかかっている。
(以上、本より転載)
長々と曽野綾子さんの体験談を紹介しましたが、日本人の「自由」の認識は、「フリーダム」の方に重きを置いているように感じます。実は、真の自由には、自らの人生への責任があり、周りに対する責任もある「リバティー」のように思います。
>全く自分で創造し、考え、選び取る自由な生き方
私の両親は、私の進路に関して、何も指示することがなかった。中学から高校、高校からさらに進学することに、口を出すことがなかった。
大学浪人から、一旦社会人になり、さらに浪人して、何故が建築の専門学校へ進学するのですが、その時には、私自身に決めた目標があり、そこへ向けて進み出した。
「30歳で建築事務所を開くこと」
実態は、独立は、予定の1年半遅れて31歳と6ヶ月で、設計事務所の認可は31歳と7ヶ月でした。以来、今に至っています。
当時を振り返るに、19〜21歳は、フリーダム的な日々がありましたが、目標が定まった後は、リバティー的な生き方を近づいていったように思います。
あれから、かれこれ40年が過ぎました。果たして、「自分で創造し、考え、選び取る」生き方ができているかは、私がこの世からいなくなってから、子孫たちが語るのだろうと思います。
朝から、哲学的な話になりました。みなさんの考える「自由」とは、どんな生き方でしょうか?、時折りそんなことを考えるのも、意味あるかもしれません。
今日は、中学招待サッカー大会準備と、住吉海岸公園の紫陽花鑑賞の観光客の車誘導係をやります。天気は曇り空ですが、雨が降らないと良いのですが。今日も一日、自らが決めた役割を果たします。