<生きる力、雑学という学問のすゝめ>「雑草という草はない」〜牧野富太郎〜

ノグチ(noguchi)

2023年09月27日 09:01

<生きる力、雑学という学問のすゝめ>「雑草という草は無い」〜牧野富太郎〜

私の読書は、"雑読"で、雑誌から専門誌、歴史本、漫画ももちろん読みます。人の興味は多様とつくづく思うのですが、さらに"雑学"なる言葉があります。

雑学とは何か?

>多方面にわたるまとまりのない知識や学問。また、学問とは関係のない雑多な知識。〜出典:デジタル大辞典(小学館)〜

逆に、本来の「学問」とは何か?

1 学び習うこと。学校へ通ったり、先生についたり、本を読んだりして、新しい知識を学習すること。また、身につけた知識。「―のある人」「―する楽しさ」

2 理論に基づいて体系づけられた知識と研究方法の総称。学。

なる解説があります。

私が体系的に学んだとすれば、建築学でしょうか。しかし、建築技術は日進月歩と、日々新たな技術開発が進み、また社会ニーズの変化で、コンクリートから木造を好む時代に変わってきています。日々の経験や知識量を増やし続けることも学問と思います。

さて、本題の"雑学"ですが、デジタル大辞典には、

>学問とは関係のない雑多な知識。

とありますが、私のとっての雑学は、生きる力になっているように思うのです。確かに建築学は、私の生活の糧を維持する手段になっていますが、本来の生活そのものものには、住環境を除けば、建築学以外に、人の生きる知恵(学問)は、多種多様(雑多)にあります。

雑多な雑学こそ、生きる知恵になっているのではと、思うようになりました。

数日前、植物学者の牧野富太郎のことを検証する歴史番組見ていたときに、「雑草という草はない」が紹介されました。

(以下、web情報より)

2022年8月牧野記念庭園記念館(東京都練馬区)の田中純子学芸員らの調査から、発言の出所を発見した。

帝国興信所(現在の帝国データバンク)の編集記者を務めていいた山本周五郎(当時20代)、牧野博士にインタビューしたとき、「雑草」という言葉を口にしたところ、牧野博士はなじるような口調で次のようにたしなめたそうです。

「きみ、世の中に〝雑草〟という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林(ぞうきばやし)という言葉がキライだ。松、杉、楢(なら)、楓(かえで)、櫟(くぬぎ)——みんなそれぞれ固有名詞が付いている。それを世の多くのひとびとが〝雑草〟だの〝雑木林〟だのと無神経な呼び方をする。もしきみが、〝雑兵〟と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームできちんと呼んであげるのが礼儀というものじゃないかね」
(以上、web情報より抜粋)

世に言う「雑草」「雑木林」ももちろん植物で、ちゃんと酸素を作ってくれて、われわれはその酸素を吸って生きています。雑草とは、人間から見た"困ったモノ"の総称と思います。しかし、見方を変えると、とても価値ある存在となります。

ふと、朝から考えていて、"雑学こそが、生きる知恵"ではないか、と思いたち、牧野富太郎の言葉を、朝から調べてみました。雑学は、学者だけでなく、一般人こそ多種多様な知識や知恵を所有しています。

ちなみに、100キロウォークも、日々の草刈り作業も、私にとっては、雑学のひとつと思っています。

そこで「生きる力、雑学という学問のすゝめ」ということを思いたち、本日のコメントにしました。ご意見ある方は、コメントやメール等、いただければ幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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