40年前の"ギャフン!"という体験を、今日の網津小学校の戦争講話の準備で思い出しました。(人間は、世のチリのようです)
私は、建築の専門学校「専修学校熊本YMCA学院建築科」に通いました。そのおかげで、一級建築士事務所を30年やってこれました。
私が、熊本YMCA学園建築科を選んだ条件の一つに、日本YMCAとフィリピンYMCAの交流で、日本から学生が春休みに「ワークキャンプ」体験(45日間)ができることがありました。
私は、とにかく一回海外からに出たかった!
熊本弁なら"わさもん"でしょうか!
退学受験の失敗から、いったん社会人になりますが・・・んー!
浪人、社会人、浪人、から専門学校へ
決めたキーワードは、フィリピンYMCAとの交流でした。
40年前、オイルショック後の厳しい時、父(元海軍)を説得して日本YMCA代表の20人(熊本は、変わり者3人)で、マニラへ。
フィリピンYMCAと日本YMCAとのセレモニーを終えて、ミンダナオ島のダバオ市に行き、ダウンタウンの小学校がボランティア活動の拠点なので、連れて行かれました。
初日の歓迎と罵倒する言葉に、唖然とします。
フィリピンYMCAのお偉方から帰った後始末、小学校周りの人が集まり、明日からのボランティア活動(現地1ヶ月間で、公民館建設、水道管敷設、バスケットゴール製作)をするのですが、"宴もたけなわ!"なり70歳を超える古老が壇上に上がり(主催者の予定外)語った言葉は、
「俺の娘は、戦争で日本軍に殺された、お前ら何しに来た、日本へ帰れ!」
でした。会場が、騒然となるかと思うと、会場にいる大人たちの視線が、全部我々を見ていることを知りました。
ダバオ市は、太平洋戦争の時、フィリピンへ日本軍が最初に上陸し、当時の統治国のアメリカ軍と、凄まじい戦闘を行なったのが、ダバオのでした。それを知らされずに、ただ日本YMCAとフィリピンYMCAの交流をする学生の集まり、すごい!ショックでした。
>俺の娘は日本軍に殺された!
本日の網津小学校の戦争のお話は、父と兄2人は、海軍に志願して行きました。父は数え16歳、満15歳の現代なら高校1年生でした。兄の戦死を知らずに志願しました。父が志願した頃、日本の敗戦のきっかけとなったソロモン諸島の海戦で叔父は亡くなりました。24歳でした。
今回の小学校の戦争講話で「私が生きて来て聞きたい"戦争"の話を思いだしました。みなさんの参考になるかわかりませんが、お読みいただけるとありがたいです。
今日の講話で、
終戦の直前、8月12・13日の熊本大空襲では、試作的に作られた、ベトナムの森林を焼くために開発されたナパーム弾が使われています。ナパーム弾は、実はベトナム戦争のためでなく、日本の家屋を焼き払うために開発されたと聞き、驚愕しました。