(人間性の理解)中年の知力、視力、経験が必要

ノグチ(noguchi)

2008年07月30日 08:34

(人間性の理解)中年の知力、視力、経験が必要

 私は、今年50才になります。最近、「中年とは何ぞや?」と考える事がたまにあります。昨日古本屋にふらっと寄って、明に付いた本が曽野綾子著「中年以後」というものでした。冒頭の一節に引かれて、つい買ってしまいました。冒頭の一節の言葉が、下記記の言葉です。

 ただ人間だけがいる~この世には紙も悪魔もいないことを知る頃~
    - 曽野綾子 -

本文を一部抜粋しますと、

(本文より)
・・しかし時間というものは、きびしいものだ。どんなに急いでも、時間だけは操作できない。心がけで時間を濃縮して、テープやビデオの早回しのように急いで人の倍も体験するというわけにはいかない。当然のことだが、若いとき何と言っても、まだ多くの人の会っていないのだ。そして人は、会った人間の数だけ賢くなる。(中略)

・・背後がどんどん深く、長く、明晰に見えて来ると、人間、価値判断の体系を狂わせられ、それがいいか悪いか歯切れが悪くなる。
 この混乱こそが中年の燻し銀の豪華さなのである。いい年をして正義感だけでものごとを判断していたら、人間になり損ねる。それは決して、国民の税金を懐に入れる役人がいいということではない。しかし正義もまた、子供じみた単純なルールとしてりようされることは大いにあるのである。人間性の理解はそれよりもっと高等複雑なもので、それができるのも中年の知力であり、視力であり、経験なのである。(中略)


 中年になり、正義感、クリーンなイメージ等々を振りかざし、若者や一般市民に激を飛ばす人を見受けます。1,2度でしたら、良いのですが。深く関わり始めて行くと、その心情が分かり、意見を交わして行くと、薄っぺらの経験を隠すために、強気にイメージを出す表現が見えてきます。

 曽野さんの文にも、中年になると、事件、出来事の背景を考えたり、さらにはその本人その者に興味が湧いてくるとありました。
 私も振り返るに、異業種交流会の準備を始めたは、37才の時で、約2年間身の回りの方と語りながら、どう進むか、あるいはどんな人が居るか、調べ始めたように思います。実際は39才から、人の出会いの場を創ろうと見学会・研究会を起こし、交流の場が出来、少しづつ「人への興味」へ移って行きました。

 40才を越えてから、孔子、孟子、老子、陽明学などから、心の育成、人との関係、交流、まちづくり、環境、等々、歴史から学ぶことの大切さを知りました。その歴史を学ぶためには、自分の生きた歴史「経験」が必要な気がしています。

>人は、会った人間の数だけ賢くなる。 
>人間性の理解はそれよりもっと高等複雑なもの・
 
 これからも、人と会うことに臆せず、淡々と縁有る方と「夢」を語ることができれば良いなと思います。そして、自分の行動を検証することも忘れないことも大事と思います。


<今日の名言>
「人は哀れむものではない。尊敬すべきものだ」
           - マキシム・ゴーキー -

関連記事