「猶興の士」はいずこ、混乱する日本の政治情勢
今日、地元の図書館をフラッと寄って、目についたのが何と石原慎太郎著「法華経を生きる」でした。中身は、宗教論争、宗教信仰の話ではなく、仏教の哲学的な検証といった内容ですが、その中で惹き付けられた言葉が「十如是」でした。冒頭の章にあった言葉ですが、物事(出来事)には、流れ、性格、始まり、原因、作用、反発、反応、縁、結果、影響、結末、・・・、突発的な偶然と思っていても、後に検証して行くと、「起承転結」があり、起点のなる前の前触れ、事が治まって後の影響まで、縁起から結末までつながっていることを知ります。
・人の検証は、100年後
数年前に、「偉人の検証は、100年くらい経たないと難しい」と何かの本で読みました。人の検証には、関わる人の思い、感情もあり、主観が入らないような人が、多様な方面から人物を精査して、評論を書くほうが良いと知りました。
今日の石原氏のコメントと、石原氏が書いた「出来事の正しい解明のために」の文章を読み、現代の様々な賛否には、感情は多々入っていると思います。
それを打ち消した報道は不可能ですが、本来は中立・俯瞰的な報道が成されなければいけませんが、実際できていませんし、国民感情を配慮(受け狙い)もあります。
幕末の偉人、横井小楠のことを一番身近にいた徳富蘇峰が資料をたくさん持っていたのですが、「感情がはいって本来の検証が出来ない」と、全然他人である医師に託した経緯があります。
・「猶興(ゆうこう)の士」は、何時登場するか
今後、政権交代に寝食潰して奔走した小沢一郎という政治家の評価は、50年後、100年後に成されると思いますが、「経済一流? 政治は三流」の汚名を返上できる、次世代に日本に夢を与えられるリーダーの登場があるか決めるのは、国民自身の行動にあると思います。望まなければ、「猶興の士」は出てきません。
次期総選挙に、その「猶興の士」という言葉を広げたいものです。
*注: 「猶興の士」(安岡正篤著「孟子」より抜粋)
日本国民は、不思議な能力を持っているのは確かですが、しかし、国民としては「凡民」であります。指導者とか音頭取り、自分を率いてくれる者がなければ何も決断・断行できない。いくら民主主義だの自由主義だのと言っても、国民に任せておいたのでは何もしません。だからこそ政治家とか経営者が国民に迎合していたのでは日本は少しも進歩しやしません。やはり「猶興の士」が出てこなければ、日本はどうにもならない。(中略)
・期待を逸した小沢氏の時代感覚
小沢氏に、「猶興の士」を夢見た人は居たことと思います。しかし、実から出た錆(国家権力の陰か)で、国民の期待を逸したと思います。真の「猶興の士」を待つばかりでは出てきませんので、出てくるような雰囲気(気運)を作るのは国民の行動と思います。
・国民意識が国家変革の基
幕末の混乱期に、志士たちの行動を物心両面で支えた多くに民間人が居たからこそ、日本は列強の侵略を受けませんでした。要は、右肩上がりの成長経済ばかりの追う国民意識が変らないかぎり、地球環境の限界を越えた現在、日本が世界に貢献できる道は見つからないように思います。
*参考資料:安岡正篤著「孟子」
石原慎太郎著「法華経を生きる」