<今の日本が続くため>国家という人はいないのだ。「国家」とは、私たちお互いのことなのである。〜曽野綾子〜
(少々長文です。お時間ある時にお読みください。)
金曜日から、詰まった日が続き、昨日の議会の代表質問が終わり、緊張が解けたのか、昨夜はぐっすりと寝て、朝も目覚めが遅かった。枕元にある本を開くと、また曽野綾子さんの著書に読み入った。
『ただ一人の個性を創るために』の中で、国家とは何かについて書いてあった。
(以下、本より抜粋)
市民の権利なるものは、「受けると同時に、誰かに『serve』することだ」という当然のことを、誰も教えなかったのである。
*1.「serve」
【意味】仕える,奉公する,召し使いをする,尽くす,(…に)仕える,奉仕する,務める,(…で)務める,服する,役に立つ。
<日本という国とは?>
停電がなく、健康保健があり、救急車は一円も持たない人でも必ず適当な医療機関に運んでくれ、二十四時間開いているコンビニがあり、自動販売機が人通り車通りの極度に少ない峠の頂上でも置かれている。こんなことができる国がどれだけありますか、と言うと、峠の上にどうして自動販売機が置かないんですか、かとよく聞かれるのである。
「こんないい盗みの対象はないでしょう。現金と商品と機械と三つがいっしょに盗めるんです。こんなものを人目のない峠の上に夜でも設置しておいたら、多くの国ではその日のうちに機械ごと盗まれるでしょうね」
というと、びっくりしている。こういう国に生かしてもらっている以上、こういう国を続けるために「お返しに働く義務」が誰の肩にも少しずつあるのである。
(以上、『ただ一人の個性を創るために』により)
20年ほど前に話題なった若者の言葉、
「私は、国になにも世話になっていない」
と平然と語る姿をテレビで見た記憶がいまだにある。
その若者は車は運転しない世代だった。
この若者の"国"とは、政府を指して言っているのだろうが、曽野綾子さんの指摘する日本の治安の良さ、病に対する手厚い制度、子どもたちの教育、公共交通は都会では有り余るほど在る。
一人の青年が安心して暮らせるのは、日本という国のおかげであることを知らない、教えられていない、だけではないかと思ったことがあります。
地域社会を大きくしたのが国家であることを、学んでいない、教えていない。平和とは、権利だけを要求して、義務を忘れさせる。ウクライナ戦争が起こり、多くの国民が、国ということを考え始めているような気がします。
朝から、長くなりました。今日も一日頑張ります。