<不思議だなぁ>何事も「させられる」と思えば、辛い。しかし進んで、誰かのためにするのだと思えば、耐えられるだけでなく、快い使命感や喜びや生きがいに変わるのである。
今日地域の集まりを、コロナ禍で久しぶりにあった。それは、会議に集まった人は、ほとんどが高齢者で、ワクチン接種はほぼ終わった人たち、ほんとマスクなしの集まりは、1年以上なかった。
話は、地域の共同事業の話だったのですが、仕事が集中するような人がいると、協力するのが過疎の集落で、費用がかかるものは、みんなでボランティアで協力するのが"田舎パワー"です。
初めの言葉は、重要な仕事をしなければならなくなった時、いろいろ理由をつけて逃れようとする人がいるが、どうせやるなら、快く引き受けてみんなで協力してやれれば、楽しいものだと思います。
曽野綾子さんの文集めた『善人は、なぜまわりの人を不幸にするのか』に以下の文があります。
(以下、本より)
ウィリアム・バークレーは、次のような話を紹介している。
「或る少年が足の悪い小さな子供を背負っているのを見て、『君には荷が重すぎるね』と言うと、その少年は『重荷ではありません。僕の弟ですから』と答えた」(中略)
弟は弟なのだ。荷物でもなく、重荷でもない。愛があると重さの手応えが変わることを、この小さな苦労人はとっくに知っていたのである。
(以上、本より抜粋)
人は、時々に与えられる仕事(役割)がある。それを、意に合わないことも多少はあるかもしれないが、嫌と思うか、前向きにやるか、で仕事の展開も大きく変わる。
>何事も「させられる」と思えば、辛い。
やるからには、与えられた役割を、難しい仕事でも、前向きに努力するか、しないかで、本当に展開が違ってくる。
もう11年前だが、「市議に出てくれ」の先輩の声かけに"どうにか応えたい"の思いで動き始まると、難しいと思ったことが、どんどん好転していった。今思えば、ようできたなぁ、と振り返ります。
大変な仕事も、「えーっ!おれが」と思うか、「よーし、やるぞ!」と思うか、で結果も違ってくる。
不思議だなぁ、と思います。