(織田信長の発想)規制緩和と専属兵集団、一人の行動が変化の起点
よく発想の転換と言いますが、意外に常識にとらわれている思考回路が、自分も含め一般にあるように思います。
経済が発展する時は、色々な常識が崩れ、仕組みの疑問を持ち、突き崩す人が出て来るものですが、戦国時代もその様相があります。堺屋太一氏の著書「日本の創った12人」に書かれている織田信長の人物像には、破天荒さと計算高さを感じます。
兵隊が、全て傭兵だったこと。ドラマ化された織田信長像と違い、初めは、負けでばかりだったり、実際の戦法は、慎重で辛抱強く、速攻でなく、じっくり準備をして戦をしていたことなど言われてみると、美濃平定に7年かかっています。
経済の仕組みを変えたことで、激しい反発が相当あったこと、公家や寺社が持っていた関所の権利剥奪は、寺社集団(僧兵)と戦わざる終えなったことも理解できます。では、この傭兵を雇うお金は、何処で調達したかですが、関所の撤廃で、流通コストが安くなり、美濃産の商品の値段を、他の地域よりも安くすることで、その差額で利益上げる方法をとった、いわゆる規制緩和をする流通改革(革命)だったのです。
15世紀前後から、様々な分野で生産技術が向上し、経済が拡大し、そのおかげで人も増えていた時期です。商業界の「座」、寺社の檀家制度等で、きっちり管理されていた住民が、既存の仕組みで処理しきれない経済商品を闇経済に流し、それを扱う輩たちが増えていたと思います。現代で言えば、ライブドアを初めとするネット業界のベンチャー企業でしょうか。信長は、その変化に動く人に目を付けたと思います。豊臣秀吉は、針の闇商人を一時期したともあったそうです。
既存の利権集団をぶっ潰し、新たな自由競争市場を美濃に起こし、人と物の動きを自由化することで、活力と市場をつくり出しました。しかし、既存社会で生きてきた旧利権集団に属する人々は、窮乏して行きます。信長は、公家、寺社に関心をあまり示さなかったのは、源頼朝の権力奪取の発想とは大分違うように思います。
初めの傭兵に話が戻りますが、元々が信長に縁のない輩たちですから、訓練する間は食事も家もあるので命令を聞きますが、いざ戦となると、戦場からだんだん人が減って行くのが常だったそうです。でも、流通革命で稼いだ金を使い、さらに新しい兵を雇い、戦争を続けます。
当時の武士は、大地主連合のようなもので、各地から元気な百姓の代表が集まり、敵と戦いました。元々百姓ですから、農繁期には自分土地へ帰りますので、戦は共通理解の休戦協定で一時お休み。ところが、信長軍は戦争専門集団ですから、いつでも始められ、休まず戦い続けられます。そして減った兵は、常に補充しますから、相手は季節労働者みたいなもにですから、持久戦、季節戦では負けるしかありません。信長は、速攻ではなく、とても慎重派の武将だったのかもしれません。
桶狭間の時は、演劇でのシナリオではなくて、今川軍の大勢で移動すると長蛇の列になります。織田軍は、天候の変化(夕立)をねらって、準備を相当やってチャンスを待った作戦だったと書かれていました。野戦に天候は大きな要因をもたらします。夕立を見越し、自軍を敵の本隊に集中させ、今川義元の首をとり、敵陣の戦意をそいだ戦法で、成功しました。この傭兵を支えたのは、経済の規制緩和と傭兵改革にあったと思います。
しかし、現代の政治は、規制緩和とは言いつつも、色々な規制が前よりも厳しくなっているように思います。また官僚機構も既存のままです。だれか、変革を一気に進めるようなリーダーの登場が望まれますが、そうそう出て来るものではありません。
東洋哲学の安岡正弘先生が幾度となく語れています。国を変えるには、国民一人一人が、自分の周りへ、よき考えを持ち、仲間を作り、少しづつでも変える努力をすることしかないと、語られています。変らない思う前に、知人友人と今の矛盾を語りしょう。その連続が、口コミ、電話、インターネット通じて、地域、全国、そして世界へ通じます。対人地雷廃絶条例は良き例と思います。
地域に変化を起すのは、自分自身かもしれません。
*参考資料:堺屋太一著「日本の創った12人」より
追伸:やっとおてもやんブログの使い道を勉強しています。これまでに、ブログの分野分けを進めています。以前のメールで分野別に整理しますので、新たにご意見をいただけば幸いです。よろしくお願い致します。